<このエントリーは現在スゥエーデンのVisbyにいる林先生への返信の再編集です> 私がフランスにいた2005-2008年ぐらいの話です。 この頃、すでに電器店からは日本のメーカーは締め出されていました。

というのも『高くて手が届かない・無駄な機能多い・売ってない』の3拍子。

フランス人は、日本人と電機製品に対する考え方が異なります。 日本では、中流階級であれば、まず一番安いものと中ぐらいのものを比べてから一番安いものを買います。 フランスではまず、多くの人は最高に高いものを見ます。最高に高いものはブランドにかける品質も、機能も、最高のものであり、それがダメなら、もうそのブランドはダメだろう、ということになります。 日本製品はまず、棚に並んでいない。 不景気リストラで海外支社を統合していたりして、販路やサポートが以前よりも力が入ってないのは目に見えて感じました。 日本メーカーの代表としてはSONY。おしゃれなCMなどを流しているのですが、欧米ウケしそうなモデルの使用、サムソンがまるっきり同じ路線、LGはそれに対して安い路線で戦うので、日本メーカーはその勢いの影にあり、多くの人が「サムソンって日本メーカーだよね?」とか「ヒュンダイって日本車だよね」とか言う状況でした。 和モノらしいアイデンティティとは何なのか、日本メーカー自身が気づかない限り、始まってもいない戦いだと思います。 「現代の国民におけるアイデンティとは何なのか?」 例えば、スゥエーデンは移民受け入れ、外国文化受け入れ、教育は英語、という環境なので、まさにアイデンティティが何なのか、がわからなくなる典型だとおもいますが、微細なカラーリングや品質、値段に対する考え方でそのあたりは見え隠れします。 (林先生にはぜひ、今後も生きた市場の研究を続けていただきたいものです) さて、過去のフランスの状況の振り返りに戻ります。 まちなかの大型店の店頭、日本製品は並んでいても、他の製品に比べて、一段も二段も値段が高い。 最近(2012-2013年)のように極度に円高な状況ではなく、1ユーロ130円台ですから、ユーロ高といえる状況です。 大型フラットテレビなどが顕著でした。韓国メーカーが1,000Euroを切る製品を年末商戦に並べてくるときに、2,000Euro、安くても1,300Euroの製品が並んでいます。 これはいくら品質が高くても、機能が良くても、画質が良くても、日本シンパであっても手が出ません。同じ値段を出せばサムソン・LGなら更に大きなサイズのモニタが買えてしまいますから。 韓国製品は確かに人件費や為替レートの差が大きく、同列で戦うことは難しいと思います。しかし、同じ価格層、同じカテゴリで戦う必要はなかったはず。 「安ければ売れる」という幻想でしょうか。フランスは高くても中身がしっかりしていれば売れるのです。自国の製品がそうですから。 そのためには、長く愛される(長持ちする)、個性がある、ライフスタイルや雰囲気に合う、といった全く異なる品質感覚が必要です。 日本のお客さんもかなり品質にはうるさい客層ですが「無料に限りなく近い安いものに対しての品質がうるさいお客」なのであり、ちゃんとお金と教育をかけたものについては比較的寛容で、個性も認めるはずです。

グローバル、フラット市場において、ますます重要なのは「顧客の育て方」だと思います

最初は新しいもの好きにしか普及していなかった、電話がかけられるiPod、つまり「iPhone」のシェア獲得を振り返るとまさにその構図です。 iPhoneは日本のメーカーの設計現場で一番嫌われる「なんでもできる、何にでもなれるデバイス」です。 しかしその裏側を支えるハードウェアの品質はiPodで積み重ねてきました。 日本のメーカーはハードディスクが搭載できるMP3プレイヤーを開発できたでしょうか? 日本のメーカーはプラスチックを外装に使わない携帯電話を開発したでしょうか? 製造コストを見積もる上で、何を最優先するのかによって、ハードウェアの設計は大きく変わります。 iPhoneの設計は単にカッコイイ、だけではなく、長年愛用する、最もそばに置くデバイスとしてよくできたハードウェア品質を兼ね備えていました。 さらにAppleのプラットフォームは日本の電機メーカーが最も弱いソフトウェア開発が武器になりました。 iOSプラットフォームの開発は、Objective-CというC言語に近い言語を使いますが、決して簡単ではなく、またいままでのC言語やC++言語に近い言語ですが、プログラムコードに互換性があるとはいえない設計になっています。 (対してライバルといえるAndroidはJavaに親しんだ開発者であれば比較的簡単に移植することができます) しかし、SDKやAPIの設計、iOSそのものの先進的かつ継続的な進化を「一社中心で」すすめてきました。Appleが独善的な設計変更をすることができます。 通常、オープン開発となると複数社が加わります。日本のガラケー/フィーチャーフォンと呼ばれるプラットフォームもそうでした。複数社が協議会を作ってAPIを策定していくので時間もかかりますし、差別化も出しづらくなりますが、開発者だけが振り回されれば良いのですから、考えようによっては、顧客には迷惑がかかりません。優秀なソフトウェア開発者が吸収すればよく、またiOSの過去のプラットフォーム互換性も(顧客がiOSをアップデートしさえしなければ)維持されます。 顧客からすれば、これは重要な発想の転換です。 よく「AppStoreのレビューが酷い」という話を見かけます、私自身もこれを研究対象にしていることもありますが、重要なことは無料ソフトのレビューに振り回されることではなく、良質なユーザを育てることです。 もともと、フィーチャーフォンのユーザはハードウェアメーカーべったりのソフトウェア開発の場で生まれたソフトウェアしか使えなかったのです。 そのほうがUI(ユーザインタフェース)としては良かった機種もあります。NやPなどは機種間のUIにブレがなく、機種変更後も移行がしやすく進化を実感しやすかった状況もあるでしょう。 しかし、スマートフォン時代はどうでしょうか? 中に入っている機能はインストールするアプリ次第です。ユーザ側に選ぶ権利があります。Androidのセットアップなど、メーカー側のガイドラインに従わせる方法はまだ残っています。 付属のソフトウェア、ミドルウェアもそうです。一番わかり易い例としては、手書き文字認識やソフトウェアキーボードといった「地味だけどよく使う部分」に各社の差が大きく出ています。

「やっぱり迷ったら、日本製品だね!」

……とお客様自身が実感できる製品、ソフトウェア、システム、サポートはまだまだあると思います。 また、メーカー側開発者は、この「機微」を、グローバルな製品に活かす方法を常に考える必要があります。 任天堂のゲームなどはそのあたりがしっかりしていると思います。 世界で最もうるさい顧客、日本人の知見や顧客の育て方を世界市場で活かす、という視点が必要です。 世界で最も野蛮な顧客、は他の国の製品に任せておけば良いのではないでしょうか。 それが成立するための体制が必要です。適切な人数、適切な体制、適切な価格帯、場所で作る必要があります。それは「安ければ売れる」という話ではないかもしれません。 日経新聞の記事などを読む限りでは、アメリカの製造業ではすでにこの地殻変動が始まっているようです。わかり易い例としてはMaker Botのニューヨーク進出でしょうか。 2012年は大河ドラマ『平清盛』によるテーマ「武士の世」になぞらえれば、「王の番犬としての武士の時代が終わり、新しい武士の世」が作られました。 (その過程に「権力というもののけ」とどう向き合うか、というテーマもあったと思います、これはこれで深いです。現代の権力とは何なのか?) いままでの「イエスマンばかりのサラリーマンの世」は終焉していると思います。新しい力を持った生き方とは何なのでしょうか? 2013年の大河ドラマは『八重の桜』です。エネルギッシュに生きる女性ならではの戦いを描くようです。 どのような人々がどのようなドラマで共感し、どのような画面(デバイス/メディア)で見て、動かされるのか、興味深いです。