昨夜は、とある本業で「集合知」についてサーベイしていた。 一晩でPPT35ページぐらい。 何かとお助けいただいた人々には感謝。 仕事の話なので細かいことはかけませんが、 まだ公募も終わってないような最先端の研究から、 ガチな実装の話から、世界と日本の状況から、 それからそれから「そもそも集合知ってなに?」という話まで。 いや、「そもそも知ってなに?」って話まで。 こうなると、古典の哲学とかまで引用する。 knowing how, knowing that, wisdom of crowd、 暗黙知とか共有知とか、共有知の知とかも。 「集合知」の典型とされるWikipediaは「真実」ではなく 「認識された情報の集積」である。 (↑この記述も真実ではなく認識に過ぎない) それを象徴づけるのが「集合知」とか「集団的知性」の Wikipediaにおけるアーティクル。 念のため自分が理解できる各国語版を比較してみた。 — ・英語 “Collective intelligence” 366更新、2002年4月2日新規開始 計算機科学と経済、ゲームなど、計算機科学の比重を多めに、歴史や概念など幅 広い記述がある。 ・フランス語 ? Intelligence collective ? 207更新、2003年1月25日新規開始 英語版と全く異なる構成。 自然集合知(昆虫)が多数をしめる。 人工集合知(Web)数行、人間社会における集合知、コラボレーション空間などに ついて。 英語版と全く異なるので、当然歴史で書かれることも異なっている。 ・日本語 「集団的知性」 32更新、2006年11月19日英語版から翻訳で開始 意訳多し、英語版と版のずれが生じている。 日本独自の研究などについての記述は全く無い なぜか都市や文明を集団的知性に含んでいる — 面白いのは、各国語版で代表としている画像すら異なること。 英語版は、かなり意味のない構造図、フランス語版はアリの群、 日本語版はどこか大都市の夜景。 さらに面白いのは、英語→日本語は訳なのに、 訳の過程でかなりの情報がそぎ落とされていること。 こまかな話なので引用はしないけど、英語版にはこの20年間で「a body of knowledge」について、何かが明らかになったと言っている。一文一文がとても 極左でとても極右な事が書いてあり、そのせめぎ合いこそが「真実」であり、 むしろ結論を断定できる方が不安になる。 その重要な分における主語「a body」が何を意味するのか、英→日で数多くの意 味をとりうる単語だけに、そこだけでは判断しづらいが、日本語版Wikipediaに は「それらしい訳」がしっかりとあったりする。場合によっては1行まるまる翻 訳されていなかったりする(英語版に後で追加された可能性もある)。英文がそ のまま載っていれば理解の一助になるが、存在しないのは困る。 別にWikipediaに寄稿する方々を非難するつもりは全くないのだけれど、 「集団的知性」であるWikipediaの「集団的知性」の”body”を 感じたような感じもする。 話は少しだけ変わって、最近、というかいつもだけど、 精神的にショックな出来事があった。 私自身は一生懸命頑張っているつもりなのだけれども、 それが他人を傷つけることもあるのだ。 フランス語で言えば”Il est tres fort”つまり強すぎる、 ストロングすぎることもあるのだろう。 そういう生きるか死ぬかの修羅場のような物を沢山味わってきた。 物言いが厳しくなるのも当然なのだが、 そうでない人々、つまり運良く魂のぶつかり合いや、理不尽な攻撃や制約を 経験してこなかったり、逃げることを選択しても問題がない人々と接するとき、 私は激しく傷つくことがある。いともたやすく。 傷つけている側は、以外に思うかもしれないが、私は脆い。 相手のことを気遣おうにも、 たいていのケースにおいて、相手にそのスイッチが入ると、 私の存在、その姿勢そのものが憎悪の対象になる。 謝っても腹が立つ、和解を求めても腹が立つ、 攻撃している論理や、同じ言葉をそのまま返したり 恫喝されようものなら、パニックになる。 泣いても、泣かれても、腹が立つ。 たとえて言えば、その相手は私を断崖絶壁に既に追い込んでいる。 突き落とせば私は目の前から消える。 しかし突き落とす勇気はない。力もない。 つかみかかろうものなら、自分もただではすまない感じがする。 願わくば、自分から飛び降りて、派手に死んで欲しいと思っているに違いない。 実際には、指一本でも押されれば、即死なのであるが。 さて、ここまでで毒は吐ききった。 実際には胃に穴が空くぐらい、精神的に病んでしまう。 しかし最近はずいぶんと楽になった。 哲学が自分の心を救うのである。 人間には「ressentiment(ルサンチモン)」という感情がある。 日本語には訳しようがないが、 人間には、誰か他の「うらやましい」と思う対象に対して、 なぜかその対象を崖から落ちて欲しいと願うような、 心の動きが働くのである。 上記のような例は典型かもしれない。 哲学自体は何も産まないかもしれない。 しかしそれを理解しないで 崖から飛び降りるのと、 理解した上で、 崖から飛び降りた役柄を演じるのでは、 自分の数少ない生命を大事に生きる意味が変わってくる。 哲学は時に心を救う。 コンピューターサイエンスと社会をつなぐゾーンで、 こんなメッセージを伝える展示物は あまりに高度だろうか。 (以上、妄想につき)