今日は風邪を引いているのか、全身がだるい。

メキシコから帰ってきた時差ぼけもそろそろ抜けているはずなのに、全身がだるくて寒気がする。それでも講義もするし学生指導もするし、成績つけたり、コード(Kinect, Swift, JavaScript…)書いたり、原稿も書いたりしている。頭痛薬が効いているうちに、書きたいこと、書かねばならないことを書いておこうと思う。 [まえがき] このBlogエントリーはもともと「VB:バーチャル(リアリティ)バブルの空虚さに嫌気が差したので為になる駄文を書いてやる!」というタイトルで執筆された駄文である。議論に値しない「VRバブル」に関する駄文である。特に現在盛り上がりのある「VRコンテンツ」を楽しければいいとか、みんなの話題になればいい、という人々は読む必要が無い駄文である。初稿は、VRエンタテイメントシステムの研究を20年余、冬の時代も続けてきたゲーム業界出身のいち研究者による「原稿料の支払いになると返事が無くなるVR系Webメディアの担当者への私的なメッセージとその本質的な意味」を、本人にとって罵詈雑言ではなく、かつ本人以外の人々に理解可能な手法で再構成したものであり、それ以上の意味を持たない。かのような駄文であるにもかかわらず、この駄文にあえて興味を持ち、数多くの人々がリツイートを繰り返すので、その都度推敲を入れている動的な駄文である。当初、この駄文に興味を持つ人物として想定していたペルソナを挙げるとすれば、(1)現在のVRコミュニティの盛り上がりに対して、何か言語化しづらいモヤモヤを抱いている人物、(2)生業を棄て、人生を賭してVRコンテンツの製作にどっぷりと両足をつかる決断をしようにも、どこか不安な気持ちになる人物、もしくは(3)VRにこれから資本を投下して、何か一発当てたいというようなことを考えている投資家のような人物で、このVRのブームの中、どこに地雷が埋まっているかを示したつもりだった。しかしながら、熱と頭痛薬のおかげもあっていまいち焦点が定まっていないこの駄文は、この「地雷」を見事にヒットしてしまいそこそこに炎上してしまったものと思う。筆者がゲーム開発の時代(2000年)に感じていたモヤモヤが実際に具現化するまで、約3年の年月を要したように、現在は理解されないことが多いであろうことを明記しておくが、一方で、私自身にモヤモヤした怒りや興味を持っていただけた人、もしくは私自身の考え方に興味を持っていただけたのであれば「白井博士の未来のゲームデザイン」という書籍をおすすめする。2013年11月に刊行したときも、ある程度予言めいたことを書いたのだけれども、その後、そこそこに予言どおりの未来が来ている。なお「自分が好きなものだけ作ればいい」と思っているホビイストとしてのVR作家は、私は止めるつもりも汚すつもりもないし、多分気分が悪くなるから以下の駄文は読まないことをオススメする。私もホビイストの自由を尊重したいし、君らも私の自由は尊重してほしい。 https://twitter.com/o_ob/status/669875216147832832  

ライターさんの立場はめちゃ弱い。

数週間前、忙しい合間を縫って書いた某ブログメディアの編集長からの返事が来ない。 2本頼まれたうちの1本を仕上げたら、もう1本の話も、原稿料の請求書の話もぱたりとこない。 (※その後、請求書をお送りしたら返事は来ました) せっかく動画まで用意したのに。 https://www.youtube.com/watch?v=7mBaJEYvEbc (どんな記事になるはずだったのかは動画を見てお察しください) もともとTwitter上で頼まれたようなお話ではあったのだけど、別にお金がほしいとか、紙の依頼状がなければ動きませんよとか、ちょうちん記事は書きませんよとか、”普通の大学の先生”のようなえらい話をしたいわけじゃあない。自分はこう見えてもTwitterやブログといった下品で野蛮で無制御なネットメディアだけでなく、書籍、応用物理や映像情報メディア学会、日本VR学会のような固めの学会誌、某学習教材の楽しい学び関係の原稿、有名なところではCQ出版社「インタフェース」やいまはなき「週刊アスキー」、「ファミ通」のようなゲーム雑誌も手伝うこともある。名前が出るものも出ないものもある。さまざまなメディアで書くのは文体も読者も異なるのでなかなか大変であるが、筆の肥やしとして書くこと、撮ること、編集すると、発信すること…は高校の新聞部ぐらいからずっと続けていること。 私自身は「ファミ通」は創刊号ぐらいから読んでいたので、おもしろい日本語や出版メディアの面白さは「ファミ通」を源流にしているものが多い。一方で、大人になってからゲーム系メディアのお仕事をさせていただく機会、もしくはそこに関わるライターさんや編集さんと接する機会があるといつも感じることは「ライターさんの立場はめちゃ弱い」という残念な点。企画からレイアウトからガチ攻略まで、夜を徹して面白いゲームをさらに面白くするゲーム系ライターさんなのに、くっだらない政治家のありもしない話でつまらない持論を並べ立てる新聞記者よりも給料が安く、立場が弱い。とても残念な現実であるが、しかしこれはそのゲームメディア自身が作り上げてしまった歴史でもあるので仕方ない。

「週刊VR通信」なるメディアは成立するだろうか?

VRが最近流行だけれども、「週刊VR通信」なるメディアは成立するだろうか? かつての家庭用ゲーム機市場のように、プレイする側、作る側が大いに盛り上がっている時代であれば、可能かもしれない。今はまだ、開発者と開発者と開発者とファンが盛り上がっているだけで、雑誌メディア(電子書籍やBlogサイトも含む)を立ち上げるようなボリュームまでは達していない。しかしスマホアプリやソーシャルカードゲームの隆盛期においては、中高生やパチンコ雑誌の近辺を、きっちりとつないでいたメディアは存在した。私やうちの学生はそういうところでお仕事をさせていただいたりして、実際のコンテンツの外側で、何がどれぐらい売れて、市場性を持っていて、儲かるのか、儲からないのか、といった商品性の匂いを嗅がせていただいたりしていた。しかしながら、やはりライター業は成立しない。とにもかくにも給料が安すぎる。だいたい見開き1本で5,000円~10,000円程度のギャラである。手伝いだから仕方ない、と割り切るのも良いけれど、まっとうな仕事として、ほかの副業などもせず、これで税金と家賃と社会保障を払おうと思ったら、だいたい月に20~30本はこなさなければならない。1本のゲームで1本程度しか書けない、1日に1件以下の記事しか書けない人間には、無理。継続不可能。 しかもそれは、ライターさんだけの気合や根性やスキルだけでは成立しない。 後ろ工程にはDTPさんもいる。デスクにボツを出されることも、メーカーさんの都合で没になることも多々ある。事故だらけだ。

ゲームに活字メディアが必要な理由。

ゲーム系メディアは広告なのだ。面白い商品をそのまま伝えるならゲームを買えばいい。面白いゲームをもっと面白く伝えなければならない。でもウソはつけない。想像もあぶない。最近は無料体験版だってある。「無料のゲームを試してもらうための工夫」に資本を投下しないと、その先のインカムで回収できない。 ゲーム系メディアは錬金術師だ。ゲームの中での体験は、とても個人的な体験だから、「最高の体験」をしているかどうかはゲームプレイヤー自身はわからない。 もちろん作り手は「最高です!」って言う。 プレイヤーも「最高なのかもしれないな」と感じている。でも言語化できるひとはあまりいない。フォーマット正しく言語化して、恥ずかしげも無く発信できるなら、その人は、すぐにライター候補になれる。書く人、書きたい人が沢山いるというのも単価が下がる原因ではある。 各ライターさんは、本当は味がある。 言いたいことを言わせたほうが面白いけれど、時には炎上する。 ひとにはそれぞれ「面白さのモデル」が異なるから。 表現のメソッドも、理解するモデルも異なるから、慎重さと丁寧さで、メーカーの一時情報を作業的にこなす人か、もともと別の分野でカリスマのような要素を持っている人、以外はなかなか成功しない。 本当は一人ひとりの「伝える人」がもっと丁寧に仕事をしてほしい。 「作る人」が一生懸命なのを「伝える人」がいないと、「楽しむ人」が増えない。 「伝える人」がそっぽを向き始めると、あっというまにしぼんでしまう。

学術の世界の 書き手 はどうなんだろ?

一般的には知られていないかもしれないが、学会の依頼原稿や業界紙であれば社判つきの依頼状、締め切りや執筆・校正の方法などが書かれている。それでいて内容の信憑性はレビューにかけられるし、原稿料なんて良くて図書カードかQUOカードだ。つまりお金が目的で書いているのではない。名誉?そういうのもあるかもしれないが、一般の人が知らないマニアックな学会でたくさん原稿を書いたとしても名誉というより「暇なんだろ」としか思われない(そんな暇があるなら論文書くべきだから)。 私の場合、どちらかといえば学会からの依頼原稿の場合は「そのコミュニティの醸成」のために書いているのだと割り切っている。学会のような先端の研究を進めている人々の集まりにおいても、その情報をどのように扱うべきか?切り口を用意する必要があるときがある。また先端の人々が集まる学会だからこそ、その切り口を丁寧に作文化していくことで後進の役に立つことがある。長年続いている「SIGGRAPH見聞記」シリーズのように共著者である中嶋先生のスタイルに沿いながら、時には例年通り、時には鋭く切り込みを入れなければならない。芸術科学会 学会誌「DiVA」の編集を預かったときは大変ではあったけど、「学会誌にマンガ」を活用することで、新しい読者や興味、新しい切り口を提案できたと考えている。同時に電子書籍へのアプローチも進めた。編集だって研究なのだ。

VRの話に戻す。「VRの冬の時代」に。

ところで自分の印刷メディアとの付き合いとはもう少し短いが、バーチャルリアリティ+エンタテイメントシステムの歴史に1995年から20年余り関わっている。 https://twitter.com/o_ob/status/668145983469936640 VRはいまでこそ、人気があり勢いがあるが、この20年のうち18年は「冬の時代」だった。この学術コミュニティは派手好きではあるけれど、「謙虚で良い人」が多いので、VRは知っていても、日本VR学会の20年の貢献は余り知られていないと思う。ここで日本の研究者の貢献をちゃんと発信しておきたい。日本VR学会は1995年の設立総会以来、会員数1,000人を超える世界最大級のVR学術コミュニティのひとつである。ちなみに日本とフランスにしかVR学会は存在しない。英語圏先進国では1990年代、クルマ会社などを中心にVRへの大きな投資が行われた「VRバブル」と呼ばれた時期があった。「やれTやGが何十億のVR環境を整備したぞ」というニュースは飛び交っても、VRにおける経験や失敗を学術コミュニティで共有するという発想は、実は2000年代に入るまでは顕在化しなかった。そもそもVRを研究として看做していなかった国もある中、IEEE VRやACM SIGGRAPHなどの国際学会がその代理をつとめてしまったという経緯もある。 私自身、VR学会の年次大会は、会社員で「籠の鳥」だった時代を除けば、設立以来ほぼ毎年参加している。世界でも最先端のVRの技術デモを見ることができることがあるからだ。そういえば当時大学3年生だった落合陽一氏と初めて出会ったのもVR学会だった。そんな落合氏も「魔法の世紀」なる書籍を刊行するほど大成された。ネットやテレビだけでなく、書籍というメディアに活字と紙を通して発信していくことは大変重要だと思う。

VRの歴史と黒歴史について知っていてほしい

以下のスライドは、3DとVRの歴史上の大車輪について示している。世界のVRのパイオニアである舘先生からいただいたものであり、大変よく表現されている。実際にはこの年表の上に、VRや3Dだけでなく、人工知能やサイバネティクス、マイコンからパソコン、ムーアの法則にゲームの歴史も巻き込んで描くことはできるはずであるが、あくまで23年続く学生VRコンテスト「IVRC」関連のプロモーションで使わせていただいているスライドなので、そこは考慮いただきたい。 [caption id=”attachment_17294” align=”alignnone” width=”1280”]3D moves in 30-year cycles, VR moves 10 years after 3D crazes. Slide from IVRC BoF, originally given Prof. Tachi.[/caption] 日本の「VR黒歴史」については2015年9月に開催された日本VR学会大会の特別企画が大変に良くまとまっている。幸いなことに、ハフポストとTogetterによるまとめが存在するので参考にされたい。 ■ VRブーム再び、歴史は繰り返すか?「VR黒歴史」から展望するこれからのVR(長倉克枝) http://www.huffingtonpost.jp/katsue-nagakura/virtual-reality_b_8128690.html ■ 日本のVRの黒歴史【2015版】(Togetterまとめ) http://togetter.com/li/872144

「3Dブームの後にVRあり」

3Dのブーム、流行、熱狂はだいたい30年サイクルできている。このサイクルが如何にして冷めていくかについては本気で語ればきりがない。メガネの衛生や視力低下、子供の使用における制限、家族同時に観ていられない(これは2x3Dが解決するが)。 https://www.youtube.com/watch?v=EoXAL1MjZrg そもそもステレオ立体ディスプレイ(S3D)の「奥行き」と「飛び出し」に驚いてくれる人は一過性のユーザーでしかない。たとえば映像研究家でありライターの大口孝之先生はこのあたりの歴史を大変よく収集されており、このS3Dの大輪廻を指摘している。舘先生の興味深い指摘は「3DブームのあとにVRあり」という現象の発見である。おそらく映像に3Dが求められ(背景としてはアナグリフ、偏光、シャッター、デジタルシネマといった技術基盤の成長はあるにせよ)、その不完全さに不満を感じるユーザやコンテンツホルダーがさらなる「体験」として、VRを求めていく傾向にあるのではないだろうか。聴衆の飽くなき欲望が、システムの機能や品質とコンテンツの質と供給を上回る上に、単価や価値自身は下がっていく。  

VRは主観的な体験である。コピーできない。

映画メディアはマスのための冒険を体験させてくれるメディアである。今日のシネコンに配備されているHD~4K程度の大スクリーンで映画を見る意味は「みんなで観る。ちょっといい環境で、集中して観る」以外には見出すことが難しい。一方でVRはゲームに似て、「主観的な体験」である。今話題のVRは映像が中心の体験であるが、徐々にインタラクティビティやナラティブ、触覚や同期性・非同期性が、新しい魅力や体験を生み出すための重要な研究要素になっていくだろう。 そのようなエマージングな環境において、「VRコンテンツ」の定義は難しく、それこそ研究者がきっちりと定義するべきであるが、私の定義では「エンタテイメントシステム」を「人の娯楽に作用するためにデザインされたコンピュータシステム」とするのであれば、「VRシステムによって体験できるソフトをコンテンツと呼ぶ」という定義ができる。もうひとつ、エンタテイメントシステムの6要素である「虚構の活動」の部分を拡張しているコンテンツがVRコンテンツなのではないかという考え方がある。「虚構の活動」とは、それが「虚構であることがわかること」である。虚構であることがわからなければ、遊びが崩壊してしまう、という考え方である。 https://twitter.com/o_ob/status/669891987827388420 もちろん「崩壊なんかしねーよpgr」という主観的な主張は認めるが、現代の遊びの「自己崩壊」について、この図は理解できるだろうか。 https://twitter.com/o_ob/status/669895967613673473

  • いつでもやめられる自由 ⇒ SNSや携帯のおかげでいつでもできるが、やめられない
  • 日常と隔離された活動  ⇒ いつでもできるがいつでも遊んでいる(ようで…実は作業)
  • 現実世界に富を生まない非生産的な活動 ⇒ RMTで換金(したとたんに作業に…)
  • 現実とは区別がつく「虚構の活動」 ⇒ パチンコを「銀行」と呼ぶ人々
  • 遊びの世界を支配する「規則のある活動」  ⇒ チート。MOD。
  • 選択の自由がある「先が読めない」「未確定の活動」 ⇒ 攻略本によるボリューム稼ぎ

これらは「ゲーム」のようではあるが、「遊び」を「作業」に変質させる。 遊びの要素に作業のような没頭する要素はあるかもしれないが、それが生産的な活動や現実的な活動、ただのかさましなどに摩り替えられることで、プレイヤーたちはあっという間に覚め、飽き、他のエンタテイメント体験に移動していく。

「VR」は「仮想」ではない。大事なので もう一度言う。

VRのVirtualは「仮想」ではない。Virtualはもともと「実質の/本質の」という意味である。なぜ「仮想」などという訳になってしまったのかは、IBMのVirtual Memoryを「仮想メモリ」と訳したことに起因するという。Virtual Reality研究が「本質」の研究であることはこのような「そもそも論」にも関係がある。ちなみに英国では「presence(実在感)」の研究だったりする。 「VRコンテンツ」、言葉の意味的には「リアリスティックなコンテンツ」であると解釈できるのだが、コンテンツ自身がナラティブなり意味なりメッセージなりを持っている以上、Virtualを「実質の」と訳すことは物によっては大変難しいし、「現実的な/写実的な」とするのであれば「realistic」でありvirtualである必要はない。そもそも「映像メディアである必要がある」と限定したとしても、(限定する気はないが)HMDのようなヘッドセット縛りの原始VRに限定したとしても、「リアルタイムグラフィックスであること」は外せない要素であるといえる。これは1990年代のVRにおいて確定付けられていた。1960年代のサザランドの「究極のディスプレイ」では、リアルタイムグラフィックスの生成までは完全に固定できていないので、アナログ光学系による実写パノラマ生成など、もしかしたら別の可能性も残っているかもしれない。そんなことを考えるぐらい、このVRと3Dの輪廻転生物語には奥深い要素がある。過去に現れたVR作品を「車輪の発明」と揶揄する人も時々いるが、それは余り面白い話ではなく、私はこのような大きな車輪を回転させる慣性モーメントそのものが興味深い。人はVRを体験したいのである。それはVRが主観的な体験であり、コピーできないことに起因する。

システムとコンテンツの関係をはっきりさせておきたい

私はエンタテイメントシステムを研究しているが、それは「システムという器があってこその、コンテンツがある」というモデルを前提としているからである。例えば、

  • 「ファミコン」というエンタテイメントシステムに対してROMカセットで供給されるコンテンツ
  • 「ドリームキャスト」というエンタテイメントシステムに対して、GD-ROMによるゲームコンテンツ
  • 映画館のエンタテイメントシステム「シアターシステム」に対して映画コンテンツ
  • 「ニコニコ動画」というシステムに対して「ユーザ動画」というコンテンツ
  • Oculus+Unityというシステム「VRプラットフォーム」に対して「VRコンテンツ」がある

という例で説明できるだろうか。コンテンツがプラットフォームやシステムを越えることは(感覚上は可能かもしれないが)設計上不可能である。新しいコンテンツによる感動はコンテンツによって消費されてしまう可能性があるが、システムを新しく作り出すことによって生まれる感覚は、確実に新しい感覚になりえる。だからVRエンタテイメントシステムを開発している。

VRの研究は人間の研究である。

VRの研究は人間の研究である。人間がいかにしてリアリティを感じるのか?この世界を現実として感じているのかを教えてくれる。それが「VRを作る人々」が探究している本質ではないだろうか。 もちろん「たのしければいいよ」という人もいて良いと思う。 そういう人たちは自分が楽しいことについての深い探求が不要な幸せな消費者で、3Dブームのときも熱狂していたのかもしれない。私はそのような人々が不快になるようなことを伝えたいとも思っていない。自分の学生であれば、伝えなければならないこともあるが、あえて明確に立ち居地を示すとすれば、

「それは自由なもの」

であるということである。アートや遊びの本質は「自由であること」であるのだから。

なお、誤解の無いように補足しておくが…

精神的にも思想的にも経済的にも時間的にも自由な人間が、自由な思想を自由な具象としてこの世に産み落とすのは自由である。しかしながら、それを他者にぶつける自由はその正当性をもちえていないかもしれない。本エントリーに対して「ポジショントークだ」とか「象牙の塔だ」とか「糞だ」とか個人的に思うことは全く自由ではあるけれど、私に向かってそれを言うこと(@ツイート等で投げやりに飛ばすこと)は、VRの自由なモノづくりのコミュニティの破壊にほかならない、「天に向かってつばを吐く」ということで、自分に返ってきてしまう。私はそんなに偉くはない。一生懸命なにか作りたいと思って寄稿したら、土足で踏み荒らされたりして傷心したりする。私はそこそこに打たれ弱いが、そこそこに俊敏性があり、ガッツはあるほうなので、生きてはいけるが、愛情や情熱を込めて作ったり書いたり表現したものが、無碍に否定されたり、その約束された対価を忘却されたりすると、悲しい。時と場合によっては「作り出したもの自身に不備があったのではないか」と自己攻撃を始めてしまう。あってはならないことだとは思うが、もしもこのような処遇にあう在野のクリエイタたちVRの面白さを伝えるライターたちがいたとしたら、不憫で不憫でならない。 なお、学術研究の世界はそこまで「自由」ではない。 「ちょっとやってみた」で話題になるところまではいいだろう。 特許はとったか?論文も書かねばならない、書いたら書いたで査読者にフルボッコにされる。 必要性や先進性、新規性、再現性、実験の信頼性、後進のための貢献に参考文献など、 マゾでタフでなければはっきり言ってやってられない。 何故論文を書くのか?それは別の機会に譲る。

VRの成功とは何か?

「18年の冬の時期を一気に忘れたくなるような、2年間」。 このようなセリフを老舗のVR関係企業からよく聞く。それは日本の商社のような企業だけではなく、世界のVR関係の企業からも聞く。長年、VRを生業としてきた商社やSIerの方々と、その顧客でありコラボレーターであった大学等の研究者。この両者が「冬の時代のVRのコア」であることを忘れてはいけない。「儲からなくても、やりたい人がやる」という意味では、VRの先進者はすなわちVRの研究者である必要があることはこれまでの歴史で明らかになっている。それは物を売る側でも同じである。「VRを使って研究をする」、たとえば教育訓練系の研究の一部を除けば、ほとんどのVR学会の研究は、アーティストも含め、すべて「VRを研究する」というスタンスがある。たしかに工学系によりすぎな思想ではある。個人的にはもっと科学や芸術に寄ってほしいが、「VRの成功」にはいつも「商業的な成功」というバーチャルなゴールがチラついている。 そもそもVRは米国のベンチャービジネスが作った言葉である。さらに本質的な意味を考えると「バーチャルリアリティを売っている」といえる企業はほとんど存在しない。多くが「VRのための機器」を売っている。しかも、小規模な成功はあれど、この業界で「成功した機器」というものは存在しなかった。OculusRiftは成功したハードウェアであるが、まだ開発者キットの段階であり、製品として成功した製品はまだ存在しない。Facebookに20億ドルで買収されたというビジネス上の成功はあるが、Facebookでパノラマ映像の再生がサポートされた、というぐらいの実装を「成功」と呼ぶべきだろうか?我々ディープなFacebookユーザであっても未だOculus対応のFacebookブラウザがあるわけではないし、そもそもパノラマ映像だけであればQuickTimeVR(QTVR)が何十年も前から実装しているし、動画パノラマだってWebプレイヤーでも十分に実装可能な時代である。そういう意味では「Theta」シリーズは「成功したVRカメラ」と呼ぶべきかもしれないが、そもそもみんな、「VRにおける成功」というものが定義されていないことに気づくべきだ。 「VRで成功」とは何なのか? まずはいろんな人がいろんなことを考えて、いろんな成功をする自由が残されている。 かつてのゲームメディアのように、VRコンテンツを毎週おもしろおかしく紹介するメディアがあってしかるべきだと思う。そして、そのライターさんは、VRの理想と現実、原理と革新、技術と文化、萌えと産業をちゃんと理解して、金になるかならないかを気にしないで飛びまわれるようなポジションを用意してあげるべきだと思う。ゲームメディアの黒歴史を繰り返さないでほしい。

偽のVRを極めたい人々が多すぎる

ここで、ライターがついうっかり書いてしまいそうな「映像のリアリティ」についての言及をしておきたいが、議論が拡散するので、これも別の機会に割愛する。 昔からきちんとしたVRシステムやVRコンテンツを作っている人は、前述のように「VRは仮想ではない」と分かっているので、虚偽現実を作ることに対して抵抗がある。原理的VR開発者から見ると「偽のVRクリエイタ」を見分けるフラグがありそうなので以下列挙してみた。

  1. バーチャルは仮想
  2. HMD = VR だと思っている
  3. 面白そうだからやってみた
  4. ゲームとVRの違いがわからない、説明できない
  5. ARとVRの違いを説明できない
  6. ARの貢献者が日本人であることを知らない
  7. 作ったものを海外の人々に向け、説明できない
  8. VRにおける科学を知らない、知ろうともしない
  9. テレイグジスタンスを知らない
  10. 触覚のリアリティを知らない

多くの人が作りたいと思うのはいいことだと思う。それはOculusやUnityのおかげであることは間違いない。しかし、それはホビーとしてなら理解する。IVRC作品としても理解する。経済産業省が支援してゼロ円で一般に体験できるショーケースイベントとしても理解する。しかしそれは、VRの本質を見誤っているかも知れない。本質を見誤ったビューアーコンテンツを作りたいのであれば、それは乱立するエロビデオコンテンツと同じ方向性に向かう。

  1. その体験の本質を理解していない利用者が寄ってくる
  2. 幅広く一般的なプラットフォームである必要がない
  3. それが「とても好きな人」で「理解が弱い人」しか繰り返し消費しない
  4. とても好きな人の嗜好は偏っている
  5. 偏った嗜好を繰り返し満足させるのはコストがかかる
  6. 偏った人たちだけが集まっているので特に気にならない
  7. 社会性を失う
  8. 犠牲を払って「その世界でのいい物」を作ろうとする
  9. 作り手が疲弊して、継続できない

もちろん、「善意の作り手」ではなく一部の「資本を投下したい側」だけは、ある程度の市場形成がされさえすれば、延々と搾取できる。「善意の作り手」は、疲弊し続けてもその生活を支えるだけのサラリーが払えれば、続けてもらえるかもしれない。 今のVRはそういうバブルの予兆が見え隠れしている怪しさがある。 VRの本質はすばらしいものだけど、そのプロパティだけで風船を膨らませて、資本を投下して、そこそこに稼いだら引き上げようと思っている。 それは10年前も20年前もいた。仲良くもしてきたし、裏切りのパターンもよく覚えている。 まあでも、あやしくてもいいと思う。それはエマージングであるということの風貌だから。

お金をかけたVRは必ず失敗する

そんなわけで、20年の歴史において、失敗する人々をたくさん見てきた。 VRの仕事をする上で、一番大事なことは「お金をかけたVRは必ず失敗する」という仕組み。このロジックには3つの理由がある。 (1)機材にお金をかけると、その時点で失敗が確定する。すでに述べたとおり、VR機器はVR研究の具象・権化なので、ものすごい勢いで進化する。「10年で回収できるはずの設備投資」が、たったの2-3年で陳腐化して、誰も触らなくなる。これが多くの根本的な問題。 もうひとつは体験者の問題。(2)体験者はVR体験とともに育つ。この話は「白井博士の未来のゲームデザイン」の「動的ペルソナ」で解説している。人は時代とともに、コンテンツとともに成長することを忘れてはいけない。 https://twitter.com/o_ob/status/391951791039856640/photo/1 (3)土地代やコンテンツボリュームで、すぐに回収できなくなる。たとえばセガ・ジョイポリスや日本科学未来館からCAVEスタイルのVRが無くなったのは何故だろうか?それは「その土地で興行し続けるにはコストが高すぎるシステム」だったからだ。コンテンツを更新し、展示の魅力を上げ、オペレーションにかかるコストを改善できれば可能性はあったかもしれない。しかし、コンテンツを頻繁に更新しようにもシステムが新しすぎたのも問題ではあった。システムを改善しようにも技術的に煩雑すぎた。セガはアーケード基盤のカスタムチップを並列にして2名同時CAVEを構築していたし、未来館の「みんなのCAVE」は円偏光メガネで体験者側に柵を作り、スクリーンを損傷せずに5-6人は同時に体験できる良心的な設計であったけれども、PC-GWSベースのレンダリングクラスタは台数構成分だけ故障停止率が高く、またコンテンツを更新するための数百万が捻出できなかった(導入時の価格ベースで業務的に見積もるから、そういうことにならざるを得ない)。 ※余談だがジョイポリスは『デートコースとしてのVR施設』を「It’s a love story」なるキャッチコピーで完全に具現化しており、あらゆる体験に「二人同時プレイ」が実装されている。今のHMDコンテンツの多くにこういう発想はみられない。セガの技術は世界一だったのだ。だからこそ、継続するのが難しかった。 きょうび流行のVRはOculusとUnityのおかげで、本当にホビーレベルの投資でHMDコンテンツが作れてしまう。それが原動力になっていることは間違いない。つまり従来のVRの最大の問題であった(1)機材にお金を掛けると失敗する、というリスクを大きく回避している。 昔話であるけれど、OculusDK1にはOpenGL等でアプリ開発する環境もちゃんと用意されていた。このようなゲームエンジン抜きで勝負したい人は少数派であるけれど、数年前までIVRCでもDirectXやXNA、OpenGLは多数派であった。開発のどこに力点を置くのか?ということにおいて「見た目の残念さ」を多少は解消できるゲームエンジンの選択は、大変なモチベーション維持になる。しかし、数年前の学生のほうがコーディング能力は高かったようにも思う。

フランスに学ぶことも多い。

ちなみに、同じお金をかけるなら、機材やボリュームよりも人を育てるのにお金をかけたほうがいい。これは2000年代のフランスのVRが成功している。2000年代のフランスは1990年代のVRから乗り遅れて、シリコングラフィックスのGWSやデータグローブなどを買うお金が無かったが、その代わりに、Virtoolsという今のUnityよりも先に産業用VRエンジンを開発し、ゲームグラフィックス出身のアーティストが多く産業用・インタラクティブVRの世界に育ったという経緯がある。 上の条件をよく理解して、それでも自分たちのサイズ、自分たちのプライズでビジネスを継続しているすばらしい会社としては、ソリッドレイ研究所が挙げられる。彼らもまた研究者である。 ちなみに、ソリッドレイ研究所だってこの20年で進化を続けている。社長の神部氏自身が自分自身が極度のオタクであり、それを隠し通すよりは、前向きに発信していったほうがいい、という展開は、氏や社の努力と同時に、社会の変化によるものが大きい。システムとコンテンツの両輪、加えてコミュニティが重要であることを、企業自身が気がついた稀有な例である。

VRはバブルなのか?世界はどうなってるの?

「VRにバブルなんて起きてない」という意見は認める。 まだまだ加熱するだろう。作りたい人もやりたいひとも、投資したい人も出てきた。 世界の高校生・大学生と接していると「VRやりたい、ARやりたい」という学生が沢山いることからも、これを教える産業もこれからは伸びるだろう。EON Realityなんて、世界中23カ国でIDCというアントレプレナー施設を作っている。産業用VRコンテンツを受注・製作するだけでなく、EON SPORTS VRのようなアメフト、野球といったフィールドスポーツストラテジ向けの会社を数ヶ月で立ち上げている。 https://www.youtube.com/watch?v=qDqUarylybw EONマンチェスターで育った学生は、フットボールやスポーツの経験者だ。彼らのような体も動き、野心もある学生たちが、ビジネスとマネジメントとVRを学んでいる。 LavalにあるEON Franceも、世界で唯一、インタラクティブドームシアターを設置し、世界中の科学館向けのドームシアターコンテンツを開発している。もちろん多人数同時インタラクティブを成立させるためのデバイスなども開発している(詳細はまだ書けない)。 英語、フランス語圏だけではない。メキシコ、中南米といった比較的資金体力が無いラテン系、スペイン語圏、BRICsの学生たちやスタートアップカンパニーも同じような装備を入手することができることに変わりは無い。 https://www.youtube.com/watch?v=fL90eqwZbqQ 世界のVRは戦国時代にある。

日本のVRが目指すべき成功は何だろう?

まずは志を高く。 志が低いのはよくない。 世界はもっとまともなVRのプロダクトを望んでいる。 志が低いのは良くない。 本質を置いてきぼりにして コミュニティからそっぽを向かれていることに 気がつかないのはそもそもの失敗の始まりである。 前世代VRの世界の真の成功者とは、フランスのような例であろう。お金をかけるなら、人にかける。人を育てる。コミュニティや人材市場を醸成させる。戦術の違いである。 今のVRに重要なのは、VRの面白さ、重要性、可能性を伝えるメディアがしっかりすることだ。 ビジネスをしっかりする。品質やブランドを高める。ライターにちゃんと報酬を払う。 電子出版の時代において、紙に印刷したり綺麗なレイアウトを出すことはすでに本質ではなくなっている。その「メディアに掲載される」というブランドが重要だ。日本経済新聞のように。 そして、ホビイストだけでなく、ちゃんと「産業用VRでおもしろいもの」を評価していく必要がある。日本のVRが家電やゲーム市場と同じく完全に世界から遊離するのは(今に始まったことではないが)、まだまだ金の国であることは間違いない。メディアが海外に向けて「その凄さ・価値」を発信する気持ちさえあればまだまだ間に合う。少なくとも学術論文を国際会議の世界で戦っている研究者たちは、それを最低でも英語で戦わせている。この20年間負けなしで※。 ※SIGGRAPH E-Tech採択国比

日本の過去のVR研究投資こそが強み

冒頭で紹介した日本のVRの研究者たちが投じてきた研究費は、数千万、数億では足りない。現在ではゼロが一つも二つも少ない投資で世界のVRを驚愕させるアウトプットを出すことも難しくは無い研究開発がいくつもある。VR学会やIVRCなどのエキサイティングな学術コミュニティを卒業し、現在はゲーム開発企業、特にプラットフォーム各社に潜在している。この研究投資の多くは日本の国民の税金の成れの果てであり、そこに学ばない/人材を活用できないのは残念極まりない愚としか言いようが無い。また目利きの良い企業は、かつてのVR研究の英雄たちにしっかりとコンタクトをとっている。特許の期限、ノウハウ、実験、失敗、展開方法…10年以上の研究投資や知見を回収するときが、いま来ている。

VRや3Dが輪廻転生を繰り返すその理由

VRや3Dが輪廻転生を繰り返すその理由は、 「自分が面白いと思うものを作りたい」とか 「それで話題になればいい」とかいった人々の 一過性の祭りによる集団意識によるものが大きいのではないだろうか。 エンタテイメントシステムとしての面白さ、課金やライフサイクルまでの設計まできちんと行い、世界に向けて発信していってほしいと思う。 それは、残念だけれども、UnityやOculusといった、コンシューマゲーム機といった、プラットフォームに依存しているうちは見えてこないのかもしれない。 すべての人が見える必要は無い。かつてのゲームエンジンのように。 ゼロをイチにする人もいれば、 イチを十にする人もいれば、 十を百に、百を千にするひともいていい。 みんながそっちを向けばよい。 私自身が主題としている研究テーマ、 人々が「何故それを面白いと思うのか?」という研究は、最先端過ぎるのかもしれない。 これは万人向けの研究テーマではないだろう。 私だってそんなことを考えながらいつもゲームをしていたら、楽しめない。 しかし「面白さとは何か?」はこれからの研究なのだ。 誰が何をどう面白いと思ってつくろうとも、私はその面白さを研究し続けることができる。 コンテンツを作りたい人、いっしょにやりましょう。 すっごいシステムを作らせていただきたいと思います。

【あとがき】

解熱剤のテンションにまかせて書いた初稿をほぼ8割、推敲に推敲を重ねて、少しは読める文章になったと思う。Twitterなどで大変熱くなってしまっているのを申し訳なく思いつつ、忙しさに負けず、なんとか筆を執っている。炎上させて何かしたいわけではなかったが、学者として、重要なタイミングで重要なディスカッションをするための投石をしたのではないかと観測している。Twitterでのタイムラインを見ていると、各プレイヤーのポジションがはっきりしたし、VR研究者や先人たちに対する「食わず嫌い」のような感覚も見えてきた。先人に対するリスペクトの配慮が足りない面は、長年、個人制作・プロプライエタリな製作を続けているクリエイタからすれば爆門学問以上にストレスがあるモヤモヤを生んでおり、私自身も考え整理して次に進むいい機会になった。 カラアゲもVRも大好きです!俺だって時間と自由があったら盛り上がりたいわ!!! https://twitter.com/o_ob/status/669550994309578752 いやほんとに。みなさまのご応募お待ちしております。 テーマは「Real Virtuality」です。 http://www.laval-virtual.org/en/prices-competitions/revolution/introduction-revolution.html https://twitter.com/o_ob/status/669551934521499649