[caption id=”attachment_11928” align=”alignright” width=”300”]LV2015aki フランスLaval Virtual 2015にて。GearVR最新のデモを体験しながら。[/caption]

VRの世界には大きな”車輪”がある

VRの世界には大きな”車輪”がある。何年かに一度、大きなムーブメントが興るのだ。それは大抵、3Dディスプレイブームの後ぐらいに起きる。 一つ前の大きなムーブメントは1995年ごろ、SEGAがジョイポリスを作ったり、キヤノンがMR研を作ったりした頃と定義づけられるだろうか。ヘッドマウント・ディスプレイ、データグローブ、SGIのグラフィック・ワークステーション(高すぎて複数人でしか使えない業務用パソコン)が「3種の神器」だった。このムーブメントは2000年ごろのPC-GWSまで続き、高くて個人では買えないけれど、テーマパークアトラクションぐらいまでは行ける技術として終息を見た。正確にはその後の携帯電話/モバイルブームにより、装着コストの大きいVR技術は「ダサい」との社会的通念に押しつぶされただけであり、長期で見た技術の検討方向は概ね間違っていなかったとも振り返れる。 現在のムーブメントはOculusとUnityが起こしていると言っても過言ではないだろう。OculusはHMDとしてキラリと光るものはあるけれど、売り方以外にイノベーションがあるわけではなく、当初からセンサフュージョン(複合センサによる画像表示位置合わせ技術)を特徴として、コンテンツ開発環境としてUnityを選択肢の一つとしていた。Unityを使わないなら、C++等で書いた自作のリアルタイムグラフィックアプリとセンサ取得、画像変形を自力で書く必要がある(サンプルはある)。 つまり、現行のVRムーブメントの本質的なコアはUnityにあるといえる。一方、Unityよりも前に、フランス発のVRコンテンツ開発環境としてVirToolsがあった。他にもSGI InventorやEONやOmegaSpaceなど産業用VR関係各社は各社の高価なエンジンを持っていた。北欧のリアルタイムグラフィック技術とゲーム産業出自のUnityが低価格高品質であった点、またプロのゲーム開発者だけでなくアマチュアやインディ製作者に愛され、アセットストアというマーケットを生み出した点も大きい。本当はさらに大きいターニングポイントとして、SEGAをはじめとする専業ゲーム各社が公式採用を始めた点が大きく、この点については大前氏他、もともとゲーム開発者であったエンジニアがUnityに移籍する時点から始まったムーブメントであり、VRの歴史ではなくゲーム産業の歴史のコンテクストで語られるべきであろう。 しかしながらUnityが偉大なマーケットを築き上げたとしても、「VRの大きな車輪」から見れば、まだ「動いているのかどうなのか微妙」というラインではないだろうか。

過去の作品を過去のものとする”VR作品”

「Unityちゃんライブ(Unity-Chan - Candy Rock Star Live)」(HMD版)などの取り組みは素晴らしい。それを公開するのもかつては出来ない事だった。プラットフォームを本気で作るとはこういうことだと思う。こういうVR作品を我々は「VR作品」と呼ぶことができるだろう。ちなみにUnity Japanは先日のニコニコ超会議2015にて、このUnityちゃんライブ誕生秘話をマンガ作品化している。これは感動の「再話マンガ化」とでも表現できる。「再話文学」とは小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が、妻の語る日本の怪談を文学化したものであるが、他者視点ではなく、主観を込めて物語を再描画することで、人々の感受性によらず、物語の演出や感動すべき点が明らかになる効果がある。 https://www.youtube.com/watch?v=DTHJTB7ocso ゲーム業界には「作品」という言葉を嫌う人々が多いのであえて補足しておくと、作り手が誰か?受け手が誰か?アートかどうか?産業的に成功しているかどうか?はこの際関係ない。単にメッセージがしっかりしていて、クオリティの高い(=適切な時間とレビューをかけた)アウトプットのことを「作品」と呼んでいるに過ぎない。 特にメッセージとして、キャラへのリビドーだけではなく、「過去のものを過去のものにする」という決意が重要である。UnityはVRの新しいコンテンツとして、「バーチャルアイドルのライブ」と「そのユーザー」を連れてきた。この「ユーザーを連れてきた」という点はとても重要で、ゲームにしろイベントにしろ、何か作ったは良いけれど、ユーザー(あえてプレイヤーではなくITにおけるソフトの使用者)が不在なままの”何か”を人前に見せても「いいね」と言ってもらえても体験者本人にとって「(どうでも)いいね」であれば、展示している側としては徒労である。 対して宇宙モノ、女子高生もの、実在アイドルものや、恐怖もののHMDコンテンツは「20世紀末に在った」コンテンツであり、今後の伸びを期待するならトンデモなく努力する必要がある。どれぐらい努力すべきかというと、スターウォーズのFPSをHMD用に作るぐらいの覚悟と品質が必要ではないか。エロ方面だって同じことで、男子高校生を相手にするのかオッサンを相手にするのか、現在はつぶさに方向性を探っている段階と思う。インタラクションをゲームに落とし込む上で、そのビジュアルやインタラクションで満足でき、虚しさよりも、継続的に投資できる市場を開拓しなければならない。一方では携帯電話と違って「周囲に見られない」という利点を持ったHMD用コンテンツは一定の市場は持ち得るだろう。それは以外と教育用途だったりもするだろうから、現在の欲望達成系HMDコンテンツの氾濫は、さもするとPC-FXのような失敗になるような感じもする。 「過去の作品」を「過去の作品」として葬り去るか、新たなユーザで常識を上書きせねばならない。

HMDだけがVRではない

「HMDだけがVRではない」という点は大変同意したいところであるが、HMDはある種の20世紀的なシンボルなのであろう。 多くの人々は「コンピュータの中で実現したい夢」の方が、はるかに興味がある。しかし、一般の人々にはそこまでのボキャブラリーも知識も経験もないので「デバイス」とか「コンテンツ」とか「どんな体験が?」とか聞いてしまう。乗馬をした事がない人が、馬の良し悪しや、乗馬クラブの良し悪しや、鞍上の楽しさを具体的に語れないのと同じことだ。 デバイスでは触覚は今後も可能性がある。Immersionの特許が問題だが、AppleWatchのtaptic engineなどもあるので諦めてはいけない。今後訴訟になるのかもしれないが、一般開発者はAPIで使えるのだからありがたく使うべき。 問題は「体験」で、「体験してないものは作れないのか?」という呪縛をどう抜けるか。 自分は20世紀生まれの昭和生まれなので、デジタルネイティヴのことはわからない。VRもゲーム開発も原理主義者なので、実体験至上主義者だ。格闘ゲームのために武術を学ぶし、実体験からゲーム作ろうとする。 乗馬や武術なら”やってみればいい”。しかし「鳥になりたい」などの夢はどうか。「Birdly」はその夢に見事に応えたVR作品だったし、体験した人々はその完成度に感嘆の声を挙げる。作者の見ている「夢」が体験できていることに感動する。Disってる連中は体験したことないか、列が長すぎて体験できなかったか、自分がもっとプアなものを作ったことがあるかのどれかだろう。

ゲームの黎明期から学ぶVRの今後

実体験へのオマージュは重要だ。しかし、ゲームの黎明期を思い起こすと、確かにゲーム開発者は楽しそうだった。遊びをクリエイトするナムコの遠藤氏は「こんにちはマイコン」の中で玩具に囲まれた仕事場でとっても楽しそうだった。週刊少年マガジンに掲載された「バーチャファイターを作った男たち」にはリアリティ追求のため、格闘し包帯に巻かれた開発スタッフが描かれていた。 しかしゲームの黎明期はリアリティ追求とは言えなかった。ムーブメントを起こしたゲームといえば「平安京エイリアン」やら「インベーダー」やら「パックマン」やら「ゼビウス」やら、現実世界からのオマージュなんてほとんどない。頑張っても壁打ちテニスとブロック崩し、「サーカス」シリーズや、脱衣麻雀シリーズ、SEGAの「フリッキー」ぐらいではないか。ほとんどが当時流行りのSFや映画や往年のファンタジーへのオマージュであり、「みんなが実現したい夢」だったのではないだろうか。それらの夢や妄想を当時のデバイス環境でインプリメントするために、現象を簡略化・記号化したものが当時のゲームに他ならない、という解釈もできよう。「マッピー」は「トムとジェリー」が近しい、そのトムとジェリーまで戻れば、やっとネコとネズミが家の中で追いかけっこしているが、いまネズミ視点になれるトムとジェリーなHMDゲームを作っても、マッピーほどには面白くならないだろうし、トムとジェリーほどドタバタも出来ない。トムとジェリーには主人公がそもそもいないし、ゲームには主人公と目的(この場合、警官的な役割)が必要だ。そしてVR作品はどちらでも取りうる。 ☆昔のゲームをなんでも3D HMD化する研究は「RoboGamer」(2005, ACM)で既に実現しているので参考にしてください。GPU使ったコンピュータービジョンでゲームを理解して再構築しています。

一人じゃ作れない”幸せ”

黎明期のゲームにしても、現在のVR作品にしても、重要な点は「一人じゃ作れない」ということではないだろうか。そしてその夢に「誰かの幸せ」はあるか。 人間の想像力は現実世界を超え、妄想を現実世界に具現化させるところが最大の戦場になっている。フィールドを作るだけならそれほど難しくはない。できるだけ多くの人々の夢を取り囲むコントロールフィールドを、誰よりも早く多重に構築する必要がある。 そしてそれはあらゆる意味で”一人じゃ作れない幸せ”なのではないだろうか。チームの中でブレなく、多くの人々に見せても共感される仕上がりになるまでクオリティを追求する。そしてその表現は後世の表現者に大きく影響を与える。批判も多く受ける。しかし正しい評価ができるにはまだ時間がかかりそうだ。 そういった印象派画派のムーブメントのようなことが、そろそろこの界隈で起きてきているのを感じる。 売れれば良い、有名になれば良いという事ではない。歴史に名を刻んでいく上で、どんな形で刻まれたいか?そして一般の人々も試されている。とてもエキサイティングな時代である。 何が言いたいかというと、 http://ivrc.net/ 第23回 国際学生対抗バーチャルリアリティコンテスト(IVRC2015)が企画募集中です。6月12日まで。 決勝は2015年10月24-25日に日本科学未来館で開催します。君の挑戦を待っている!