今日は、修士の学生のプロジェクト発表会だった。 今年でこれに参加するのは3回目になるのだけど、毎回、いろんな意味で面白い。 最初見たときは衝撃的だった。 日仏のVRがこんなに違うのか! という純粋な衝撃。 その後に襲い掛かる ・科学って何なんだ ・デザインコンセプトって何なんだ ・アートワークの作りこみの方向性って何なんだ…!? という国際間の違いを(吐き気を伴いつつ)如実に突きつけられる感覚。 まあ3回目にもなると「そういうこともある」と達観できてしまうので、留学生のかいせい君をフル参加させてみたら…あまりのショックで吐いてしまった。 とまあ、冗談はこの辺にておいて、描写としては大げさですが心理的にはそんな感じです。 もちろんここへ至る過程もものすごーいバトルが繰り広げられていたわけですが。 で、私はというと、3年目ともなるとだいぶ肝が据わっていて、所用で席をはずした1件以外、すべて「有用で建設的なコメント」をぶつけてみました。 『はっきり言って、お前らのこの状態では、世界のレベルにはまったく持って遠い!どれぐらい遠いかと言うと、南極でホッキョクグマを探すぐらい遠い!』 とか心の中で思っているわけですが、それは2万kmぐらい譲ったとして。 「方法論というのはシンプルで合理的でなければならない」ということを偉そうに言う人が沢山いるわけですが、それはアングロサクソン的な考え方なわけなんですよ。 私は方法論というのは「方法を柔軟に考えるために整理すること」だと考えています。 だって、そうでないと「方法」が「方法論」である必要がない。 半端なフランス人が大好きな「ごちゃごちゃな理論」。 半端な日本人が大好きな「経験一辺倒」。 まあこれもありでしょう。 でも、柔軟さが必要なわけですよ。目的やゴールがあるなら。 小学校の先生みたいに 「勝った人もいる、負けた人もいる、でもみんな頑張った!」 ってのは小学校だけで勘弁。 でも勝ち負けですべて判断するのも、勘弁。 何が言いたいかと言うと、人生には勝ちしかないんですよ。 勝って勝って勝ちまくるのが人生。 もう、生まれたときからそれは決まっているんですよ。 逃げたり、あきらめたりするから負けるんですよ。 でもそこであきらめたら、負けなんですよ。 ちょっと話がずれたけど、上記のような根性論と精神論と、理論と屁理屈はまったく使わずに、技術とインタラクションデザインと、プロジェクトマネジメントメソッドだけのアプローチで、全部フランス語でコメントしてやった。 まあ、お上品なフランス語ではないかもしれないけど。 フォーカスを当てるべきは「自信満々で勝ったつもりで大恥かいてる連中」ですね。この人たちの人生も、ある意味勝ってるんですけど、Laval VirtualとかIVRCとかの大舞台で、初めて世界の広さに 気がついて大恥かいてる自分に気がついたりするわけです。彼らはその経験をして、その一瞬恥ずかしい思いと経験をしただけですむわけですけど、その指導者側はそういうわけには行きません。少なくとも、「知らないこと」を「恥ずかしい」と思わない親や教師は別にいいんですけど、「知っていて教えない」というわけにはいかない立場、というのがあるわけなのです。 まあそんなわけで、今日は一日よく働きました。 まだ頭がフランス語です。 息子とはフランス語で遊んでやりました。 てゆか息子、フランス語だとかなり喋れるなあ…。 豊かな知識と経験、それに柔軟な行動力…というのは、こうやって日々鍛えられていくんだなあ、となんとなく実感しつつ、直列に並んだ電子メールの山や、1つの問いにある一定のフレームでしか結果を返さないGoogleの検索結果などにゲンナリしてみたりしつつ夜更けを迎えるわけです。 そう、全然関係ないようでいてある話なんですが、日本にはフランスにないような謎の専門学校やそれに類する株式会社大学・大学院が沢山あるわけなんですけど「即戦力」をうたう教育機関はあっても、「超IT」をうたうインスティチュートって、あんまりないですね。 具体的には「ITトップであるGoogleやマイクロソフトが『お金出してもほしい』と思うような人材を育てるサービスとしての教育機関」ですね。 資格やスキル取得の専門学校ってのは、「2番以下」の人々がやればいいわけで、ド天才が天狗にならずに経験を積み、世界の頂点のIT技術を自分から生み出すような場所。ITを超えるから、「超IT」。 何でそんなことを私がこんなところで書くかというと。 メディアアートとかVRとかってのは、フューチャーテクノロジーなんですよ。 もう、生まれたときから「ニューメディア」であり、「未来の技術」であり、未来の手形を先に発行しているようなドメインなのです。 そんなもんを研究したり表現に使っている人々のさらに上、トップにいる人々は「普通のアート」や「普通のテクノロジ」には興味がなくなってて当然だと思うんですよ。なんせ未来の未来なんですから。 さらに言うと、こういうものを「学問として教える」っていう大それたことを平気で考え付く大学経営者とかいるわけです、しかも学部とかで。まだ体系かもされてないし、博士もいない、下手すりゃ理論体系化された書籍もないようなドメインですよ。でも若者にキャッチーであれば作ってしまう。…で市場には中途半端な就職難の人材があふれて、業界全体が良くわからん方向に地盤沈下していってしまう。まあ「裾野を広げる」という意味ではいいのかもしれないけど、現在のコンシューマゲーム業界なんてまさにその末期状態じゃないですか? 今日、某有名ゲーム会社に勤める私の古くからの友人S君が、リストラで解雇通知を受けました。 彼は決して優秀ではないけれど、根っからの馬鹿でもありませんでした。むしろ血統や生まれ育った環境は良いほうで、たとえて言えば「未覚醒のニュータイプ」とか「自分から覚醒しないようにしているニュータイプ」です。そんな彼も「真面目と不真面目と自暴自棄と着実の狭間」を行ったりきたりしながら、それでも某有名ゲーム会社に転職後、連続6年以上勤めてたわけです。最近では後輩もできたり、仕事にやりがいもでてきたりしてたそうです。それなのに「チョン」ですよ。 彼はかなりのオタクですがゲームオタクではありません。彼の人生においてゲームは「あってもなくても生きていける何か」であったはずです。そもそもゲームってのは「あってもなくても生きていける何か」でなければならないはずなんですよ。 もちろん競馬と同じく「そのシステムを成立させるために働く人は例外的にそのシステムでは遊べない」という鉄則が働くわけであり、彼もそうやって日々の糧を得てきていたわけですが。 話を「超IT」に戻すと。 「超ゲーム」なんですよ、超一線のゲームプログラマはゲームを超えたゲームを常に作り続けなければならない。超える気がないなら、それは「ホビー」でいいんですよ。それ以下の「中間」はどうするかって?そんなの私に説明させないで。そもそもそんなゲーム要るのか?ってことですよ。不要必要は関係ないとしても、日本人の頂点に近い人々がそれを作る必要があるのかってこと。パチスロの画面とか最たる例で。安月給の中低賃金労働者が、「遊んだ」という言葉を摩り替えて、ギャンブルという蜜を相手に時間の浪費をして、そのために右でも左でも替わらないようなキャラクターマーチャンダイジングを割り当てる。クリエイティビティ?産業?まあそういうものもあるかもしれないけど、それは大きな無に陥るための大きなスパイラルなのであって、超一線の人間が利用こそすれ加担していいものではない。 「悪貨が良貨を駆逐する」のが運命なら、「駆逐されない良貨」を鍛え続けるしかないでしょうが。 日本人はせこいんですよ。 日本人はイジメ体質なんですよ。 日本人は真面目すぎるんですよ。 日本人は島国根性なんですよ。 日本人は日本語大好きなんですよ。 日本人は一番になれないと信じてるんですよ。 クラーク博士は北大を去るとき「少年世大志を抱け」といったそうです。100年以上前に、私と同じようなこと感じてたんでしょうね。 以上、読む人にとっては何かとても具体的なメッセージで、そうでない人にとっては何だかよくわからない叙情的な日記になってしまったわけなんですが、普段からこうやって何か言っておかないと。 ちなみに上に引用した「Boys be ambitious」にも実は後日談があって、その後に続く言葉は長い間謎だったり、勝手に加えられたりしたりもしています。 http://www.lib.hokudai.ac.jp/collection/ClarkBibList/ambs.html 結局のところは、謎なんですけど私はウィリアム・スミス・クラーク博士は普段から似たようなことを常に学生たちに説いていたんではないかと考えているんです。だって、去るときだけカッコいいこと言ったって、それは教育をしたことにはならないし。 「若いんだからけち臭いこと考えるな」 「お前ら貪欲に生きろ」 「君らぐらいの年齢は意欲的でないと」 「若いんだから望みは捨てるな」 「もっと欲だしなよ!」 「俺がこんな頑張るんだからお前らも頑張れ」 「若者ってのは大掛かりでないと、私のように」 日本語ならこれぐらいの意味があると思います。 (当時の辞書は中英辞典だったので「大志」になったのでは) まあいずれにせよ、私も日本の「超IT」なり「超ゲーム」なりを目指す日本人としては、それなりの金言は用意しておきたいものです。 少なくともフランス・ラバルにおけるお雇い外国人、クラーク博士みたいなもんですから。 で、最近は「技術という辞書に、不可能はない」という言葉をよく使ってます。 もちろん有名なナポレオン1世の言ですね。 ちなみにこれも癖のある訳で、「The word impossible is not in my dictionary(世の辞書に不可能という言葉はない)」とか「Impossible is a word to be found only in the dictionary of fools(不可能という単語は愚か者の辞書にしかない)」と発したかのような事が日本では信じられていますが、実はフランスでは「辞書」という言葉は出てこないようです。 調べてみると 「Impossible ? Je ne connais pas ce mot-la, Impossible n’est pas francais.」 『不可能?私はそんな言葉は知らん、不可能というのはフランス語ではない』 という訳になります。でも最後の「Impossible n’est pas francais.」の部分がやはりいろんな訳があって「不可能とは、フランス人らしくない」とかフランス語なのかフランス人なのかあいまいなところもあります。でも「辞書」とか、エゴイスティックな将軍を連想させる「余の」は短縮版には出てこないわけです。 ※現代の用法で単純に考えて、普通、フランス語で「それ無理!」ってときは「C’est pas possible!」という訳で、確かに「フランス語らしくない」かも、とか。 いずれにせよ私は学生や同僚の教授に… 「Impossible, n’est pas technique!」とか 「Impossible, c’est ne pas des techniques…」とか言ってるわけです。 「技術には不可能なんてない」 「技術が不可能だ!…なんて技術をやってるうちに入らん!」 「不可能?それは技術が足りないね」 アクセントを変えて 「不可能。それは技術の話してない」 とかいう意味で使うこともあります。 他にも「…可能かどうかって?そりゃ技術に不可能なんてことはないんだけど、高いとか時間がかかるとか面白くないとかいうのはあるよ」なんて応用もあったりします。 まあ日に3時間しか寝てないわりに馬上で寝てたり、誰がどう考えても負ける勝負に勝ってしまったり、意外に胃が弱かったり、いろんなところが親しみ深いナポレオンですけど、これからも「下町のナポレオン」ならぬ、「エンタテイメントシステムのナポレオン」として欧州統一ならぬ世界統一を目指してこれからも頑張っていこうと思います。 せめてメートル単位ぐらいは流行らせたい。