演習(TP)の準備が忙しい。 冷静に考えると、これ仕事じゃないと思う。 まあでも自分から手を挙げてしまったし、去年の唯一の星である?GPUVisionは去年 のこの演習から生まれたわけなので、あながち否定もできない。 でも忙しい。 忙しいのは毒だ。 冷静にものを考えることができなくなる。 人のやさしさや、回り道がまどろっこしくなる。 だからどんなに忙しくても余裕は忘れたくない。 10分前行動とかではなくて、 Blog書いたり、家族との時間を過ごしたり、柔道行ったり…といった余裕なんだけど そういうことしてると余計忙しくなる→時間がなくなる。 今月はBlogすら書けてない。これも毒だ。 少なくとも明日はいいお父さんでいたい。 夕方、幼稚園に迎えに行った帰り、息子に「おとうといっしょにごはんつくる!」と 言われていたのに仕事に行かなければならないなんて悲しすぎる。しかもその後、息 子、拒食が続いているらしいし。 少なくとも明日はいいお父さんでいたい。 ところで今週は、信頼していたフランス人に激しく裏切られた。 しかもこの手の裏切られ方は初めてじゃない。 口約束で働いて、あとで「ごめーん」ってタイプ。 しかも会計とか事務とかのせいにする。 私はどうがんばっても日本人なので、働く以上は完璧を求める。 普通に生真面目。 普通にクオリティが高い仕事じゃなきゃ認めたくない。 もちろんこの国で働く上で、そんな常識はない。 ユルくやっても椅子が守れるならそれでOKなのだから。 有名大学出の管理職なんてもっとタチが悪いしな。 はっきり言わせてもらえば、君たちのほとんどは日本ではアマチュアだ!といえるか もしれない。 そのアマチュアに足を引っ張られている自分は何なんだ? 自分は言葉が不自由な外国人。 だからどんなに仕事ができても、気遣いがあっても、貧乏でがんばってても、しょせ んは外国人。 外国人がこの国で働く上での制約なんて普通の人間は知りもしない、知ろうとも思わ ないし、知ってもめんどくさいから避けようとする。 まあ日本も同じなんだよ。 みんなも、周りに外国人が居たら胸に手を当てて考えてみてほしいよ。 自分はきっとフランス語で 「ワタシニホンゴジョズジャアリマセン」 みたいなことを言ってるんだ。恥ずかしい。 それでもスキルと人情でどうにかがんばってるんだ。馬鹿じゃないか。 自分がやってることは研究者なのか?道化じゃないのか? まあ慈善事業の海外青年協力隊にあこがれていた時期もあったから、それに近いと言 えば近いのかもしれない。 ああ、そう思えば少しは気分が上向きになってきたよ。 まあでも自分のパトロンはJICAじゃなくてJSPSなのでもうちょっと研究がんばらない といけないなあ…。 足医者の最終回に行って来た。 実はスカラボニーヤ先生に作ってもらった靴底は使ってない。 リューマチは良くなったのか?というと実はよくなってない。 昨日なんかは雨のせいもあって一瞬立てなくなる直前ぐらいまで痛かった。 でも理由は分かってる。 疲れとストレス、それから働きすぎと運動不足。 柔道が足りないのだ。マイルド医療はこの場合役に立たない。 で気分を変えて柔道。もう何回目だろう。 立ってるのがやっと、という状態はほとんどなくなってきた。 もちろん打撲とかは普通に何箇所もあるんだけど。 乱取りで変な相手にぶつかった後ぐらいかな、立てなくなるのは。 でもゼイハア言いながら畳に倒れて数秒天井を見ていると、何か思いつくこともあ る。 今日は突然「メディアアートにおける精神論の国際的伝播」についてひらめいた。 クワクボリョウタさんは、けっこう直感で作りたいものを作るタイプ、あるいみ天才 派だと思う。土佐社長はどっちかというと形式と精神が重要。もの作りはその原動力 とデッサンさえあれば進むタイプだと思う。 自分は、どっちかと言うと理性派。核になるコンセプトがしっかりしてないと、あま り気をいれて物を作れない。できたものも中途半端だし。 しかし、海外で受け入れられてるメディアアートには実は2種類あって、その精神性 を理解して受け入れられているものと、作ってる本人がほとんど自分の精神世界を理 解しないで作っているものがあったりする。もちろん後者は誰もその世界の精神論を 語ることはできない、それらしい解説はできても真実は闇の中だ。 何で柔道やりながらそんなことに気づくのかというと、実は日本人のアートについて 最近気になっていることと、フランスの柔道について気になっていることがオーバー ラップしたから。こういうのは投げられたときとか礼をしたときとかに気づく事が多 い。 日本人のアートはとにかく形式に毒されてる。 自分も理性派なのでそうかもしれないけど。 自由だ!とか爆発だ!とかいってもそれも形式。 たとえて言えば、 「定規を使って絵を描いちゃいけないんじゃないか」 と思ってしまう教育を受けている時点でもうダメかも。 その時点でアート本来が持つ自由度を失っているし、 まっすぐな線が生み出すアートも失っている。 (これはひとつの例でしかありませんけど) 正確に言えば、これは形式だけではなくて 「アートはこうじゃなくちゃいけない」 という精神論に毒されているのだとおもう。 この「精神」ではなく「精神論」は、日本人特有?なもので、実は格闘技などにも見 られることがある。 子供の剣道クラブにたくさん存在する「見えないルール」の数々、あれは剣道の心と いう建前をつかった精神論。剣道そのものとは似て異なっているし、時にその見えな いルールが虐めを生むことすらある(本当に精神を理解していない人間が精神論を振 りかざすと、という条件において)。 フランスの柔道界には「精神」はあるけど「精神論」は非常に嫌われていると思う。 多くの若い柔道家が精神論については『威張りくさって!』と嫌っているように感じ る。初段ぐらいの柔道家だと「心技体」は知っていても『体と技があれば心なんて関 係ない』と平気で口にしたりする。私自身は「そうかもね」と答えるけど、格闘家の 精神論が染み付いているので、つい「結局は心も必要だけど」と付け加えてしまう。 確証はまったくないのだけど。 (4段ぐらいになるとこんなことを言う人は居ません、念のため) メディアアートの話とリンクさせると。 おそらく、作品やコツ(d’arts)とスタイル、形式、ファッション…が最初に取り入れ られて、人口が広がっていったあとに、やっと精神を輸入・理解しようと言う動き や、自国の精神をうまく活用するという動きが出てきて、さらに人口が広がっていっ たあとに、精神論をポツポツと翻訳・輸入・構築しようという動きが出て来るんだと 思う。 じゃあどのあたりにフランス柔道の「精神」があるのか?というと、たとえば「礼」 ではないかと。少なくとも日常生活においても日本人よりは握手や挨拶をきっちりす るフランス人にとって、日本柔道式の「礼」はあまりにそっけない(茶道やサービス 業のような礼の仕方を知っている人も居ないのだけど)。じゃあフランスの柔道では どうやって礼をするかと言うと、礼のあとに握手があり、さらにその握手を反対の手 でポンポンとたたき、さらに背中をさすり、「merci, merci beaucoup…!」ぐらい はやる。はっきり言って「形式」の礼や言葉は無意味。闘って全力を出し切った者同 士が理解できる友情がそこにある。 というわけで見事に前半のストレス毒入り話と後半の格闘によるストレス解消の話が つながったところで、右手が打撲で痛いので筆を置くことにします。 良い週末を。