結局のところ、自分は平たくいえば「もの書き業」が性に合っているのではないか。 論文だったり、申請書だったり、Blogだったり、雑誌記事だったり、プログラムだったり、メールだったり、Wikiだったりetc…。 ここ最近は、プログラムを書きつつ、夏休み中で停滞しまくっている大量のメールを処理しつつ、AceSpeederのストーリー、つまりSF小説まで書いている状態。 そんなところで、例のファミ通、SIGGRAPHレポートが発売される。 取材先の関係者から表記について指摘されて凹む。 雑誌の紙面は私だけで作るものではないから誰にも悪気はないし、むしろ少ない紙面に、あえて無理してでも紹介したことに後悔を覚える。 おかげで日記を書く気力すら出てこない日々。……こういうときは無理しないで、自分の気が向く出力チャネルを選ぶべきだろう。 小説書きというのは、実はそれほど苦痛ではなかったりする。 ゲームとかマンガとか原作とかは実は大学出る頃ぐらいまでは普通にやっていたわけで。 昔は推理小説のほうが好きだったんだけど、今回は初SF。OpenOfficeの縦書き日本語機能は、実はWordのフランス語版よりも使いやすい。 「小説」とか言うと、なんだか偉そうだけど、創作において、シナリオにしろ、ストーリーにしろ、コンテにしろ、概要にしろ、アイテムの機能紹介にしろ、何かしらの「もの書き」が存在しないと成立しない。重要な部品。 ホームページがサーバープログラムだけで成立しないのと同じかもしれない、とか。 さて小説を書くということは、論文を書く脳と混乱するかと思ったけど、C++とPHPとVBScriptが混在する環境よりはましだという事がよくわかった。日本語と英語のメールを交互に書くのよりも切り替えは楽。 論文は事実を仮説とデータに基づき客観的に述べる能力が必要で、小説は情景を描く、想像させる能力が必要。構成力や圧倒的な書くスピードはどちらも必要。 論文のようにいつも書いているわけではないからその分のトレーニングは必要だけど、不可能ではないと思う。 ちなみに情景を想像させる、というところも含め、文体は違えど、予算の申請書にも近いかもしれない。 当たり前のことが当たり前に解説されているだけでは、面白い文章にならない。 周りに言われたことをすべて盛り込もうと思うと、インパクトがなくなる。 まわり道なようでいて、実は科学論文もそうなのかもしれないな、と最近の没作を振り返ってみる。リライトしてみようという気持ちすら出てくる。 「開発者の視点」では『あたりまえ』であるが、成し遂げた側からすれば、それは『あたりまえ』なのであり、そのままでは読後感も『あたりまえ』になってしまう。 よく書けている論文というのは、そもそもなぜそんなものを作ろうとしたのか、という原動力について、序盤でしっかりとベクトルを書くことを忘れていないし、アブストラクトや1・2章を斜め読みしただけで、「不可能を可能にしている!」というワクワク感が読者に共有される。 あとは後半のヤマをどう作るか、あたりが弱点であることがよくわかる。そのための実験であり、データであり、分析であり、ドラマなのだけれど。