…書いてはいけない。 とおもうので、とりあえず何に腹が立ったのかだけメモ。 あとは穴でも掘って「王さまの耳はロバの耳ー!」と叫ぶか、落ち着いたときにBlogにまとめてみようかとおもう。 ・JSPS 「研究に集中できるために」ということで、この研究費には生活費から実験用の機材、消耗品、学会発表のための遠征費、デモなどの発表費用すべてが込み、ということは本当らしい。しかもおそろしいことに、研究室の予算申請には連名できないそうだ。 ということは私が研究して採択されると、研究室や私の生活費から費用を捻出しなければならないが、私自身は何本論文書こうが研究室の台所事情には直接貢献できないことになる。 つまり考え方によっては「2年間、牢獄でおとなしくしてなさい」ととるか「この小遣いで遊学(勉強&観光)してらっしゃい」といってるように聞こえる。まあそれぐらいしか期待されてないのかもしれないが…すまん、そういう人生を無駄にするような生き方はできないんです、私については(ほかの研究者もそうだとおもうけど)。 少なくとも、JSPS落ちた人とか、命削って研究している人に対して、そういうすごし方は失礼すぎる。なんとかならないか。 ・メディアアートとパブリックアートとクリエイティブクラス 定義についても活動についてもどうでもいい、まずは。 しかしこの人たちは本当にアートについて理解しているのだろうか、という怒りに似た疑問が沸き起こるのはなぜだ。 メディアアートのクリエイティビティは特権階級のものなのであろうか?もちろん、職人技はあるかもしれないし、近年のホビーかも認めなければならないだろう。しかし、アートは本来自由なものであるべきだ。そうでなければ探求する意味がない。 メディアアートは人が支えるアートではなかったのか。 それを万人のものにするのがメディアアートのためのメディアテクノロジーではなかったのか。 国の科学技術予算でアートを名乗る研究が増えてくるのも結構、かっこいいアーティストを賞賛するイベントが増えるのも結構。そしてICCはなくなっても誰も困らないかもしれないし、今までのアーカイブも作品も先行研究も、Googleで検索されなければ「なかったこと」になるのかもしれないが、それも結構。 しかしそのような「流行り廃り」に踊らされて、大事な一生をささげるわけにはいかない。 本質を見極めなければならない。 見極めたうえで進めなければ。 ああ、やっぱり熱くなってしまった。 でも今度まとめてもう一度書こうっと。 しかし自分で書いてて読み直してみて気がつくことは、 まるで印象派画家の変遷のようなことがいままさに起きているんだな、という感じ。