media@francofone さんのBlogは面白い、為になる。
情けない話であるが、政治や経済が専門ではない上に、フランスの新聞やニュースサイトをバリバリと読む仏語力はないので、正確に読み取ったり吟味するには非常に時間がかかる。なので、新聞記事を翻訳されている氏のblogは多角的に理解するうえで非常に役立つ。
今日はここでオランダとフランスのEU憲法否決における違いを解説しているので読まれたし。
http://blog.livedoor.jp/media_francophonie/archives/23986115.html
フランス→オランダの新聞記事の視点だからかもしれないが、オランダ人の理由の方が幾分理知的であり、自立しているように見えるが、政治家たちのほうが自国の将来を占う選挙を上手に進められなかったのだろう。
結局のところ、近代民主主義を採る国において、自国の政治に不満がない市民などいないし、国際社会にも、海外からの労働者にも関係ない立場においては、アイデンティティをEU官僚の手中に預けるような選挙など否決されるに決まってる…というのは簡単すぎる理解だろうか。
EU憲法について、アルジェリア学生とも話してみていたのだが、教育レベルの低い人々が「理解できない・賛成できない」というのは当然のことであるし、もっと時間をかけて広めていかねばならない問題だと感じる。我々外国人には選挙権がないし、この社会で優遇されているとはとてもいえない。もし、選挙権があれば確実にOUIなのにもかかわらず、現在のフランスにはNONだ。しかし教育や職場はフランスなのである。
今日時点の私の理解としては、EUの今後の結束と動向については今まで以上に、深く見守っていかねばならないし、今後の世界史における、大きなターニングポイントに出会っている可能性がある。私自身ゆっくりと時間をかけて、より知っていかねばならない、という理解である。
そういう意味では素人の判断や、EMUの値動きだけに注目したアナリストの発言、メディアを複数通した印象というものだけに左右されてはいけない、できればニュースは原文で読みたいし、ソースはたしかなところから得るべきであろう。
そういえば、フランスに留学を考えている法学系学生のBlogなどを見ていても、そういった日本メディアからの理解では、あまりに偏っていることに驚く。「フランスはドイツやイギリスがYesといえばNonだ」というような話である。もしそうだとすれば、あまりにフランス人というものを乱暴にくくりすぎる。そういう輩もいないことはないと思うが、ドイツやイギリスに対して(昨今の日本人の中国や北朝鮮のように)敵意丸出しで会話する人間は「ちょっとおかしい」と思われるのではないだろうか(趣味の悪い冗談では聞くことができるが「日本人だからねえ」と言われるのと大して変わらない意味合い)。またメディアもそこまで偏重していない、そんな偏ったメディアを読んでないからかもしれないが。カフェやバー、それから研究室での雑談も、またミクロすぎてあてにならない。日本人よりは、この手の話題を日常会話にしやすいのが良いのかもしれないが。
そう!francofoneさんのBlogで知った、非常にすばらしいblogが「ベルナール・ド・モンフェラン 駐日フランス大使の日記」である。どういうわけかはてなダイアリーで運営されており、仏語と美しい日本語で掲載されている。日本語はおそらく翻訳官によるものであるが、美文である。仏語オリジナルが読めると勉強になるのだが、どうも化けてしまって読めない。なれてくると化けた漢字で何が書いてあるか読めるのかもしれないが。
参事官などであれば、直接会う機会もあろうと思うが、大使というのは本当に市民とは遠い存在である。それでいて両国の理解にもっとも心血を注いでいる存在であるし、また孤独もあるだろう。そのような立場の人物のBlogが読めるというのは本当に驚きである。これがもしネタだったりしたら、本当に怒る(今のところ真贋を調べる方法が無いが…)。
特に、最近の東アジアの危機について、一般市民にも読んでもらいたいなあ、と思う投稿を引用しておく。
■独仏和解について
http://d.hatena.ne.jp/Montferrand/20050526/1117098279
以下、箇条書きに対する個人的コメント。
・政治的意思
日本政府は懸念を表明する以外に、和解を示唆するような政治的表明を何度してきたのだろうか?
もちろん米や経済支援をしてきているが、声明は出しているのだろうか?
日本国民として育った私も、あまり聞かないのに。
・具体的なアクション
600万人の若者の相互訪問するのを助ける、これもすごい。日本-韓国も旅行関係会社ががんばっているが、やはり元から嫌悪や先入観がある人は、お金払ってまで行かないだろう。
・共通の記憶
これが一番大変であり重要な活動だと思う。歴史の闇に葬られた事実が、双方の都合のより理解として教科書に記載されたり、記載されなかったりしている。ナチズムの理解にはいまだ時間がかかるとおもうが、両国間において共通の歴史理解をなくして、解決はないと思う。
少なくとも私は自国の歴史について、一通りの教育は受けてきているが、その年号以外の「確かさ」については甚だ疑問がある。特に近代史・戦争史については、国際経験が豊かな史学者が十分に調べれば分かることであるのに、一部の過激な意見を言うものや、生き残った被害者だけの視点で、印象が操作されていくのが腹立たしい。歴史は連続であり、破壊と復興の後に現在の姿があるのであって、新しい発見や理解によって、ある日突然、人々の記憶や理解が覆されるものではない。
・首脳どうしの不可欠な象徴的行為
突然北朝鮮を訪問したかと思えば、靖国神社を参拝してみたり、という行為は「不思議」であって「信頼」ではないだろう。まあコメ支援を続けるためのネガティブな理由作りとして靖国参拝をしているとすれば、それは国民に対する背信行為である。
・40年のたゆまぬ努力
のんべんだらりと戦後を過ごしてきたわけではないが「推して知るべし」という態度では対外理解は得られないし、日本国民の記憶においてすら「戦争は闇の歴史」になってしまう。それでいて日本人は「好戦的な農耕民族」であるという歴史が語る事実をキッチリと理解しなければ、ただ時間が過ぎるだけではないだろうか。
大使のBlogは政治声明以外にも日仏の交流に関する非常に面白いトピックがたくさんある。
気軽に読まれたし。
■なぜフランス には「ベールの着用? 」に関する法律があるのか
http://d.hatena.ne.jp/Montferrand/20050517/1116229757
そんな強気の「信仰の自由」を日本でも見習ってほしいと思う。
この強い意志の原動力は、政治ではなくて教育の現場における意識の強さなのではないかと思うのだが。
http://d.hatena.ne.jp/Montferrand/20050526/1117070556
「分子料理」は上手い料理を作るために必須の技術である。熱を通したときのアミノ酸の振る舞いにとどまらず、ハイテク日本はもっと研究をすすめるべき分野だと思う。また味だけでなく、見た目やシチュエーションといった要素も(工業のためだけでなく)より研究されるべきだ。
http://d.hatena.ne.jp/Montferrand/20050603/1117785767
そういや私個人としては何故、日本の国技は「相撲」であって柔道、剣道じゃないのかが疑問。
実は剣道はこのへんで盛り上がってたりするのだが、
http://blog.goo.ne.jp/takahiko_shirai/e/7454f6816fc6cfcbd28d3984bf99b4c1
個人的にはどこが起源でもいいとおもう。剣道連盟は話が焦げ臭くなる前に、日韓併催の「剣道ワールドカップ」を開催して、剣道を日韓友好の橋に使うべきである。
国技と起源の混同は、まさに戦前ナショナリズムに毒された思考ともいえる。「サッカー」はアルジェリアの国技(国民的スポーツ)らしいが、フットを物心ついたときから楽しむ彼らにとって、別に起源なんてどこでもいい。仮に植民地時代の記憶があったとしても、それはそれ、サッカーで勝てばよいのである。それがスポーツのすばらしいところでもある(ちなみにウチの研究室ではアルジェリア学生が一番サッカーが上手い)。
それにしても何が「疑問」かというと、柔道ほど国際的に知られて、数多くの流派の原型となっている日本のスポーツはないし、剣道は日本の武士道の精神をスポーツに昇華したもの、と内外共に正しく理解されているにもかかわらず、明確な国技としての認識やプロモーションが行われてないことである。
また相撲は国技なのに(体育の教科書には載っているが)学校で教えるわけでもないし、まちに剣道場、柔道場はあっても、相撲部屋は両国近辺にしかない。また女性の相撲はあまりに社会理解を得ていない。
そもそも「国技」ってなんだよ、と調べてみると、これまた実にあいまいであることが分かってしまった。「国技館でやるから国技」なんだそうだ。じゃあロックコンサートも国技か、と。「国技」を言い張っているのはむしろ相撲側の人々で、剣道柔道もやる人々、たとえば警察官とか体育の先生は「国技=柔道・剣道・相撲」と言ってる人もいる。
いずれにせよ「国技=国民的スポーツ」とするにせよ、「国技=国の象徴的スポーツ」とするにせよ、語弊があるような気がする。「じゃあ、フランスの国民的スポーツは?」と聞かれるとこれも難しくて、サッカー、自転車、フェンシング、南仏ではペタンクなんてのもある(「政治の話」が挙がることも…)。見るのとやるのとではぜんぜん意見が違うのだが、見るだけ、しかも一度もナマ両国では見たことがない人が大多数を占める相撲に国技を名乗る資格があるのだろうか。スポーツ平和党あたりが真面目にこの辺の話題をどうにかするべきかもしれない(そのときは「プロレス」が主張されるに違いないが…)。その前にスポーツ史を専門にする学者はちゃんと論文なり書籍なりで歴史的理解を明らかにすべきであろうし、文部科学省は国技を認定しないまでも、正しい国民のスポーツのあり方について指針を出すべきだろう。
なんだかまたずらずらと下らない事を書いてしまったが、これは昼飯前の空腹を紛らわすための駄文であることを付け加えておく。