変質する大学教員とTwitter規範

“以下個人的なつぶやきです.所属組織には関係ありません”

2014年8月7日,メガスターの太平さんが某女子大の客員教授を退任されていることをFacebookの西川さんのTLにて知りました

大平さんのTwitterは氏のかっこいい業績や評価とは裏腹に,”大変生々しい”というか”中二っぽい”というか,”きな臭い”というか,なんというか「アクティブなTwitterアカウント」であったと思います.あくまで個人的な感想ですが.

私自身もTwitterは長年アクティブです,研究活動,個人的な家族のアクティビティ,学生の楽しそうな写真に加えて,政治や社会に対する問題提起などもあるので,「ある意味きな臭いアカウント」ではあると思います.

大平氏のTwitterはそんな私が時々目を覆いたくなるようなこともあるようなアクティブさであったと思います,ですが,それも含めてのTwitterでしょう.
ディスカッションしたり,個人的な見解を述べるマイクロブログですから.
気に入らないときはフォローするのをやめればいいのです.

でも今回の件はそうはいかなかった.
なぜなのか?

 

大学教員は”変わった人”が多い

大学教員には”変わった人”が多いです.

アカデミックポストを渡り歩いてきた人も,一つの大学で長く勤めてきた人も,企業等での経験から大学教員として採用された人も,一言でいえば「ふつうのひと」は大学教員にはいない,というか成れないのではないでしょうか.

大学院も修士までならともかく,博士まで行くとなるとお金も時間もかかりますし,研究は「誰もやったことがない研究」をやらねばならず,それを何本も論文を書いて,博士論文まで書き上げる必要があります.

もちろん,博士の学位を持っていないひとも「大学教員」には存在しますが,(知らない人も多いと思いますのであえて書きますが)大学の先生は「博士の学位」を持っている必要があります.

全員ではないけれど,大学が学部や学科を作ったりして,学位を認定する機関として機能するためには,それを指導する学位を持った先生を一定数集める必要があると定められています.

学位を持っていない専門家も認められていますが,法律や文部科学省の指針で設定されています.

参考: 大学設置基準 第9条(昭和49年),大学設置基準の改正(平成17年)

#どんな学科がどれぐらい,どんな学位の先生を必要とするのか,といった適格者の数は,認可か届出か,どんな学位を出す大学なのか,にもよって異なるそうです.

いずれにせよ,大学の先生には「ふつうの人」はいません,「普通の人」の定義にもよると思いますが,普通の人が普通にやれることしかできないと,学位になりません.
逆に,普通の人が普通にできないことができる代わりに,普通の人が普通にできることができないことも多くあります.

それは,「勉強ばっかりしてきたから」という理由だけではなく「研究ばかりしていると,世の中の普通の現象を普通ととらえない」という行動習慣が身についている,という表現もできます.また先生方を観察していると,「他の人がやっていることに興味がない」という性格的な適性も影響していると思います.

企業で長く経験を積んだ人からすると,「組織論としていかがなものか」とか「そんな非効率で非合理な!」と思うようなことも多く,長く大学の先生をやってきた人と,企業での躾をしっかりと受けてきた人の間にも摩擦やストレスを生んでいることもよく見かけます.世間一般の「普通の人」を,「一般企業にお勤めのサラリーマン」と定義した場合,その組織論や行動様式,プライオリティには大きなズレがあります.

また人格的な完成度にも世間とのズレがあります.

「大学の先生は人格的に聖人であってほしい」という世間からの期待とは裏腹に,「聖人のようなことを言っているように聞こえるけれど,全然そんなことはない」という人も多いです.
大学の先生,特に多く活躍してきた方や論文をたくさん書いてきた先生は,いずれかの分野において,信条,ポリシー,論理構築のプロですから,筋は通っているし,正論を言うことができます.
ちゃんとした背広を着て,難しくて偉そうで,長い歴史に積み重ねられた話をすれば,それらしく見える……これのがクラシックな大学の先生のあるべき姿のひとつでしょう.

一方で,「わかりやすくて,すぐに役に立ち,テストや資格の役に立つ教育ができる先生」が求められる分野もあります.
塾や予備校,専門学校の先生がそれにあたりますでしょうか.

塾や予備校の先生も人格的に変わった人も多いですが,出口やアウトプットが試験や資格,就職とはっきりしていますし,生徒の在学期間も半年~2年程度で短いので,
「ああ,変わった人がいたな」という程度の印象で済まされることも多いし,そもそも先生も生徒も講義が忙しすぎて,人格云々の話題は上がらないですよね.

このように,大学の先生は「世間から見て変わった人」が多い,ということはわかりますが,今回は,大学の先生自身が「変わっていくべき生き物」なのではないかという視点で筆を執っています.

 

Twitterが原因で解雇されたかどうかは明確ではないけれど…

さて,太平さんのトラブルについて振り返りたいと思います.

某女子大でどんな講義や活動をされていたのかは知らないけれど,大平氏の「おちゃめなTwitter」も含めての,客員教員採用だったのでしょうか.

採用する側は,後から「そんなTwitterで荒ぶる人物だとは知らなかった」ということはできると思います.

しかし,あとから「この人のネット上での人格は,本学の大学教員として不適切だ」という理由を「ネット上に掲示して」いるわけではありません.

そもそも人事の採用プロセスや判断プロセスなどは公開されるべきものではないでしょう.

しかし,明確なガイドラインがない以上,「めんどくさい人物だから解雇」ということが大学側はできてしまうのも事実です.

大平氏は産業人でありクリエイターですから,某女子大のポストを失ったからといって,彼自身の輝きが失われることなんて全くないと思います.
これからも面白いものを作り,子供たちに希望や未来のかっこよさを示し続けてほしいと思います.

ただ,大学の先生をやるのであれば,Twitterとの付き合いかたは考えないといけないのかもしれないです.

 

私だって反省する

自分自身にも最近,Twitter/Facebookと大学教員としての在り方について反省させられる事件がありました.

詳細は控えますが,大変残念な事件であり,
私自身が「残念な大人」であることを痛く認識させられ,

また自分を含め,関わる人々すべてが心苦しい思いをした残念な事件です.
再発を防止しなければならない,そのような心苦しい事件です.

Twitterもやめようと思いました.というか自殺も何度か考えました.

(私が死ぬことで解決することよりも,困る人のほうがはるかに多いので踏みとどまっていますが,背中を押されることは多かったです)

最近,ひとつの終息をむかえたので,落ち着いて考えられるようになってきました.

 

2014年現在のTwitterとは何なのか

Twitterは普段の大学や研究のプロモーション,震災の時の心の命綱,不意の災害の状況把握,交通障害,誰かに聞いてほしい静かな慟哭,さまざまな生きているという証を発信し続けるライフインフラとして,急速に拡大してきました.

今の高校生でTwitterを使っていない人は少数です.
「飯食った」,「おはよう」,「ありがとう」といった普段親ともろくに挨拶しないような年頃の高校生たちが,Twitter上やLINE上で,生き生きと雑談をしています.

しかし,LINEはともかく,Twitterは世界中から丸見えな状態なのです.
えらい人から見ると,アクティブなTwitterアカウントは「頭の中にあることを全部,ネットに放流している状態」に見えるのでしょう.

実際にはそんなことはありませんが,TLなりフォローワーなりが,やんや・やんやともりあがっていると,人気者はついつい「その世界の人々」に向けてファンサービスをしてしまいます.

ジャーナリズムやフォトジェニックといった「伝える心」を若いうちから鍛えている人は,「目の前で起きた出来事」を140文字で見事に描き,写真で切り取り,発信する力を持ちます.

そして,ときにTwitterはコンテクスト(前後関係)や理由,意図を切り離して,RTによって再発信されていきます.

それがTwitterです.

 

立場・年齢・時代とともにTwitterの使い方は変わるべき

これは本当に難しいことです.

TwitterというSNSサービスが持っている機能はサービス開始以来ほとんど変わっていませんが,それを利用するユーザが拡大すればするほど,また社会とTwitterの位置関係が変われば変わるほど,Twitterの意味や価値が変わってきます.さらに,自分自身というユーザと,その周りのソサエティが変わることでも変革します.たとえば,中学高校の友人らと盛り上がっていたTwitterユーザが大学に入ったら,そのノリのまま,物理的な友人とTwitterで盛り上がれるでしょうか.Yesという人はラッキーでしょうが,Noという人に比べ,何かを学ぶチャンスを失っているはずです.

日々人は連続的に変化や刺激を受けながら過ごしているので,平和に過ごしている本人は「変わらなければならない」という本質的問題に気づかないことも多いです.

たとえば,証券取引法違反で懲役していた堀江さんは,獄中でネットから遮断されることで,さまざまなことを学んでいますし,大人になっています.こういう「大人」は,旧来の「穢れを知らない聖人」を求める大学では忌み嫌われ,面倒くさがられ叩かれるのかもしれませんが,同世代の私はそうは思いません.これからの日本社会において,一つのケースとして,堀江氏を受け止め,学んでいく必要があります.「罪を憎んで人を憎まず」ともいいます.罪人ではありましたが,悪人ではありません.悪いのは罪であり,それをそのままに放置する社会であり,法がそれを定めているのであり,人々が罪をとらえて変わっていかなければなりません.これからも頑張ってほしいと思います.私も頑張ります.

社会において本質的に問題なのは,実社会やSNSで何かトラブルを起こしたり,不快なトラブルを起こしたとしても,事件があっても学ばない,改善しない,反省しない,そのような「大人の皮をかぶった大人」が,他人を裁いたり,陥れたり,若者の可能性を奪ったりすることではないかと日々感じています.

つまり,「SNSで起きたことを原因として,日々の生業を失ったりするようなことが『ない』とは思わないでほしい」ということを,大学は,中高生でもわかるように説明すべきだと思います.

 

大学教員という職業と属人性

一方で,大学教員は,さらに厳しいストレスにさらされていることを認識すべきだと思います.

日々の講義や授業準備,採点,研究指導や学会関連,大学内業務,家族の一員としての仕事に加え,ビシッとしたスーツを着て,いつもにこにこ爽やかにあいさつし,どんなストレス下においても学生を叱咤激励しすぎることなく,パワハラにもめげず,セクハラと疑われるような言動は強く慎み,それでいて若者を未来に社会に届けるような付加価値を自ら生み出せるよう,小中学高校の教育における借金もふくめて穴埋めしつつ教育し,不登校学生には刺激をせずに激励し,まっとうな就職先に輩出する必要があります.

これに加えて,ネット上でも品行方正でありたまえ,大学のプロモーションや学生のフォローアップに使うこともあるかもしれないけど,学生の顔は出してはいけない,頑張っている様を伝えてはいけない,あれはだめ,これはだめ…当事者がどう考えるかは別レイヤーで,後からルールはどんどん生まれてきます.

Twitterは”保障の範囲外”ですよ,”これは業務外です”,という話は通用しないようです.

「個人の言論の自由は認められている」,しかし,「社会的制裁」は「個人に加えて組織からも受けてくださいね」,という位置に立たされています.

それは,「立場」というものなのでしょうね.

たとえば,内閣総理大臣のTwitterアカウントがあったら,みんなフォローしてみるでしょうし,興味深い発言や問題発言があれば,みんなでRTしたり@Tweetしたりするでしょう.

「親しみやすい」というインタフェースを用意することで,意見は集まる,ディスカッションはできる(ように見える),でも「総理大臣には総理大臣らしいTweetが望まれる」のであって,実際にお立場がある人が主張をすれば,それは炎上したり,波風が立ったりする.

これが天皇陛下だったら?皇族だったら?やはり人々は「~らしいおことば」を求めるのだと思います.

 

一方で,Twitter/Facebookはライフラインです.大学教員・研究者・いちネット市民として「使用しない」という判断は難しいでしょう.

「そんなの匿名アカウントつくればいいじゃないですか」という先生もいらっしゃいますが,大学教員・研究者という属人業務にかかわる以上,完全に匿名の裏アカウントを勤務時間なり,リソースを割いて利用するという方法も,否定されないまでも,正攻法とはいいがたいのではないでしょうか.

いずれにせよソーシャル・ライフラインというものは,そのように「生きているアカウント」である必要があるわけです.

私が裏アカウントを作ったとして,そこを毒吐きに使ったとしても,それは私のアカウントとしては機能しないし,虚偽の発信です.

つまり「このTwitterは大学教員としてけしからん」というお叱りを受けるのであれば,そのアカウントが本人の本アカウントであるか偽アカウントであるかを,罰する側はおろか,本人が示すことも難しいし,一方で,就業規定で「TwitterおよびSNSは禁止」と書いてない限り,「あれはだめ,これはだめ」という封鎖論だけで物事を進めるのは本質的には難しい,ということです.

もちろん,大学の名誉を著しく損じる行為などは,SNSに限らず禁止されていますし,免職の理由になりえます.

情報工学や情報メディアの分野において,SNSを無視して研究することができるのであればいいでしょうけれども,そうもいかない立場の人はいかがでしょうか.

「大学教員としてのTweetはこうあるべき」,というプラスの面を示しつつ,「こういうことはしてはいけない」というガイドラインを示す必要があるのではないでしょうか.

それは,「いやあ私はSNSとかわからないんですけどね」というオジサン・オバサマたちがやるのではなくて,当事者なり先端の専門家が作ったガイドラインを,「オジサン・オバサマ視点で大丈夫か」という確認をして,整備・改訂されていくべきことではないかと考えます.

少なくとも数年前のTwitter使用ガイドラインとは,社会とTwitterの関係が変わっているし,職位などのお立場,年齢によっても変わるべきと考えます.

 

大学教員のガイドライン(規範)を作ってみた

大学教員のTwitter規範:誰も傷つけない発言に責任を持つ真実であっても本当に伝える必要があるか考える

(1) 意図があるなしにかかわらず,もし「誰か一人でも不快に感じるTweet」をしてしまったことがわかったら,即刻削除する.

意図のあるなしにかかわらず,「不快!」は主観ですから,起きてしまうこともあるでしょう.

削除したことそのものをお詫びしたい気持ちもあるけれど,それがさらに人を傷つけることもあるので注意.

「発言削除は卑怯だ」と言われたとしても,本人しか削除できないのだから,削除してほしい人がいれば削除するのがまず必要です.

(2) 発言に責任を持つために,Tweet”に”しない

Twitterは前後関係を持たずに一人歩きする上に,後で編集できません.
つぶやくな,という話ではなく,ちゃんとした意見があるなら編集も推敲もできるBlogでやるべき.

不確定な出来事,社会問題(たとえば進行中の事件など)は,その瞬間の感想でしかなく,真実とは程遠いし,仮に当事者であったとすれば,記録として残しようもあるけれど,当事者でないならそのスタンスは明らかにした発言を140文字に込める必要がある.

またTwitterは散文なので,後々の論説に再構築するのは難しい.仮にBlogに書いてその主張がのちに原稿なり出版なりになったとすれば,もうけものではないか.Blog回帰して,社会に貢献したほうが,風説の流布に参加するよりはるかにいい.

発言に責任を持つ,つまり推敲や編集,追記,取り下げなどをする必要があるなら,Tweetにしない,という固い意思が必要です.

(3) 真実であっても本当に伝える必要があるか考える

真実は時に人を傷つける.報道カメラマンであったとしても,そのシャッターで切り取った写真よって起きることについては責任は持たなければならない.

これは,ネットワーク発信力のある情報メディアの先生をしていると,自分自身のネイティブとはパラドックスに陥ることもあるので要注意です.

非真実(虚偽)を伝えればいい,ということではないです.真実であったとしても,それは爆発力があり,こめる弾丸によっては殺傷力を持ちます.

 

「Twitterべからず・あるべき」職位/年齢めやす(ドラフト)

・大学生(19-22才)

バイト先に不利益を与えるようなTweet,友達を失うようなTweetは避けるべき.ゲームの話ばっかり,「おはあり」ばかり,かまってちゃん,@ツイートだらけはそろそろ卒業すべき.

・修士学生(22-24才)

自分がリアルで知らない人からフォローされるような価値があるTweet,技術情報,発信ソースとして成長すべき.RTはしてもいいが控えめに.ディスカッションできる.

・博士学生(26-28才)

先生に監視されても大丈夫なように,遊び関係よりも,「自分は生きて研究しているぞ」というpingとして使用すべき.まとめなどをつかいディスカッションを整理できる,活用できる.

・ポスドク(28-30才)

研究の成果について,特に論文化されたものについてはどんどん価値を発信すべき.就職活動にも生かすべき.学会でtsudaるなど.未婚なら合コンやデート関係のプライベートな発信も可だろうか.

・助教(30-35才)

所属組織について不利益になるような発言は慎む.女子高生が学内に大量にいるからと言って無許可で写真を撮らない.国際会議で他の大学の先生などとリゾートやうまい飯を満喫していることを流さない.批評はするが批判はしない.激励はするが叱咤はしない.

・准教授(35-45才)

上記の規範の中心として設定.

・教授(45-55才)想像

日経新聞や大丈夫そうなニュースサイトからのRT,部下に対するお褒め@ツイートのみ可.

・学部長以上(55-65才)ならない

大学ニュースリリース(非・高校生向)とほぼ同一ソース,もしくは日々のどうでもいいこと,路傍の石などを撮影して発信する.

・定年後(65才~)生きていれば

フリーダム,無双.公序良俗というよりは法律に反しないことであればまず問題ない.

 

まとめ

以上,「変質する大学教員とTwitter規範」という名前で書き起こしてみました.

きっと「この忙しいのに何やってんの?馬鹿なの?反省してないの?」とお叱りなども受けるかもしれないですね.

しかし,大平氏がこのような事件を起こさなければ,さらに私自身が残念な事件に遭遇していなければ,書き起こさなかったと思います.

機会をいただいた大平氏および,この文章を読んでカチンときた方に前もって感謝とお詫びをお伝えいたします.特に大平氏には同情します.

 

世の管理職のオジサマたちは「他の事例」で物事を判断します.それはしかたがないことです.

大平氏の例はわかりやすすぎます.

しかし,もともときな臭く汗臭くネット内外で活躍する実務実績者(学位があるなしに関係なく)のTwitterがあらぶったおかげで,実際に写真を撮られた人がいたわけでも,被害を受けた人がいたわけでもなく,「単なるネタツイートでした,てへぺろ」,しかし「不快」「不適切」で客員教授を即日解雇できる世の中というのも,すこし行き過ぎていて,恐怖を感じます(実際はそれが理由であることは示されていませんが).

無免許運転・スピード違反のルールが示されていないのに,大平氏のケースを「誰かが傷ついたね,不適切ね,大学の名誉に泥を塗ったね,じゃあクビね」という事例として展開することは不適切だと考えます.

女子大にはそんな暗黙ルールがたくさんありそうです.

事例として「どのような判断がなされたのか」は公開されず,「不適切Twitter即解雇」という結果だけが残りました.

しかしルールが存在しないところに,大学教員という知の集積と特殊モンスター性を兼ね備えた生物を置いて,学生に「先生」と呼ばせているのです.

大学はサファリパークでしょうか.もしそうだったとして,あぶないライオンはお客に吠えた瞬間に射殺すればいいのでしょうか.

そんなサファリパークは,醍醐味もありませんし,お客はライオンになりたくて,それがカッコいいと思って大学に来ているのであって,目の前で殺されるライオンを見たいのでもないです.第一,そんなことを続けていたら,ライオンが絶滅してしまいます.

「大学側の判断」が,必ずしも正しいとも思いません.正しければよい,ということもでないからです.

私は当該大学の教員ではありませんし,たぶん罰せられる側に立たせられても罰する側ではないですから,大学教員を擁護したい側です,撃ち殺されるなら,世の中のためになって死にたいです.

一般企業では,SNSと社員の問題は「組織の一員としての自覚」であり「匿名性」で担保できる部分は大きいでしょう.しかし,大学教員,研究者は,組織の一員でもありますが,個人の業績において成立している属人性も高い職業です.またSNSと実社会の関係性が変わり,より重要になっている以上,社会の変革・個人の反省や理解を巻き込んだ「規範」の問題であるということです.

 

…さて,「客員教授」は上のガイドラインのどこに属するのでしょうか?もしかすると「定年後」ではないでしょうか.

最初から大学組織に属していたのではなく「客員」なのでありますから,その人格なり行動については,認められているということです.

大学の名誉とはなんであるか,を定義した上で彼のTwitterが不適切なのであれば,そもそも大平氏を雇い入れることが誤りであり,解雇は他の教員に対する見せしめであり,学生への教育上も「べからず」は示しているけれども,「こうあるべき」という点については建設的な行為にはなっておらず,何の利益がないと感じます.

 

私自身が,似たようなケースで真剣に悩み,苦しみ,反省し,「二度とこんな不幸なことは起きてはならない」と真剣に考えています.

私自身の性格は,この事件を境に,変わっていくことでしょう.

おそらくネット上の人格も変わっていくことだと思います.変わらなければなりません.

若い人は簡単にアカウントを捨てていきますが,そういうわけにもいかないので,

筆を執り,責任をもって,加筆修正していくことでしか,

私という生き物は,生き続けることはできないと思います.

ブログを書くという行為は,生き様です.

遊びではありません.リスクもチャレンジもある行為です.

 

残念な大人を,残念な世の中を,どうやったら,すこしでも前に進められるか?

そのような社会の問題,教育の問題を,向かい傷をうけながら,何度でも立ち上がって,

世の中の若者たちに背中で示していくことが,先に生まれた「先生と呼ばれる生物」がやらねばならないことの一つではないでしょうか.

追記:その後の太平さんの反省から

変態ツイートを繰り返していたことに対する振り返り,そしてまた一つ人間が大きくなっていくことが見える.

そして弁明も反省も,Twitter上で展開するしかない部分もある.辞めても逃げてもアカウント替えても意味はないし.

「人間になれるだろうか?一応努力してみる」というつぶやきは共感できる.がんばろ大平さん.俺も頑張る.