コピペ論文はなぜいけないのか

小保方さんにはガッカリさせられた,という人も多いだろう.

 私自身もブログエントリー「小保方さん、今後の科学報道の在り方さえも変えた研究者。」でもいろいろな事を書かせていただいた.
 様々なご指摘を頂いたりして,修正もしたけれど,疑惑が明らかになったあとも,取り下げるつもりはない.
 むしろこの事件は,科学の倫理と報道について,我々や市民に大きな問題を投げかけていると思う.
 科学の本質について問い直すいい機会なのだ.以下,中高生でもわかりそうな話としてまとめたい.
こんな思考実験をしてみた.

小保方さん問題でわかる科学リテラシーと科学的野蛮人テスト。

Yes/Noで考えよう。
Q1:学位論文は無効だ
Q2:Nature論文は撤回すべきだ
Q3:理研は解体だ
Q4:剽窃は重罪だ
Q5:誤画像は絶対に許されない
Q6:共著者も同罪だ
Q7:魔女は裁かれるべき

自分なりに巧妙に選択肢を作ってみたつもり,
なお”現時点での”私の回答は「NNNYYYN」である.

「Q1:学位論文は無効」?

 まず「Q1:学位論文は無効になる」のだろうか.
 一度認めた学位認定を剥奪する仕組みがあるとは思えない.
 その学位認定機関の信頼が落ちるという事でしかないように思う.
 もしかしたら「剥奪」という仕組みが有る大学も有るのかもしれないが,少なくとも私が「博士(工学)」を頂いた東工大にはないと思う.
 論文の構成や再現性などによって「博士(工学)」か「博士(学術)」かといったディスカッションはあったと思う.私自身は博士をとれたのは軌跡だと思うし,もんのすごいプレッシャーで,審査の過程で泣き崩れた事もあった.
 私が後世に,「博士として不適格だ」と東工大に指摘されたら,それは受け入れるしかないだろうな.
 もしそういう仕組みがない,しかも自分が博士として不適格だと認めるなら,名乗らない.それだけのこと.
 博士の学位というものは,そもそも大型二種免許のようなもの.大学の先生や研究者という特殊業務に就かない限り,必要はないのだ.医師免許は別ね.大学の先生の中にも博士を持っていない先生は沢山いらっしゃるし,博士を持っていて,一定の期間に一定の論文を書いているということが求められる審査基準があり,その物差しのなかでは重要な意味を持つのであって,博士を持っていないから,あの先生は駄目だ,とかそんな感覚もおかしいと思う.
 単に,博士を持っていないと,学位を与えてはいけない,指導者として不適格,そういう理解でいい.

「Q2:Natureは論文を撤回すべき」?

 そもそも科学は誤りだらけである.誤りは新しい実験や証拠,仮説によって正していかなければならない,というスタンスを取れば,Natureにおいてもリジェクトできなかった論文を,「なかった事」として,消滅させるような仕組みはないのではないか?と「私自身が勝手にそう思った」.
 「そう思った」では科学の方法ではないので,ちゃんと調べてみたのだが,実際にはNatureでも問題になっているようだ.
Science publishing: The trouble with retractions A surge in withdrawn papers is highlighting weaknesses in the system for handling them.
http://www.nature.com/news/2011/111005/full/478026a.html
 Withdraw(取りさげ)やretractions(撤回)が過去10年間で44%の上昇とは,記事にある通り,査読システムの問題もあるとは思うが,そういった論文自体が横行している雰囲気もあるのではないだろうかと邪推してしまう(私はNatureに論文を出す分野ではないのでわからないけれど).ただ,撤回する主体者はNatureではない,著者から申し出るべきであろう.出版する,ということはそういうことなのだ.社会的に,研究界的に,衆目に晒され,引用される事で,物事の正当性がはかられる.つまり,これらの論文はむしろ「消し去られてはいけない」存在であり,今後,引用され続けるべきである.むしろ「すごい研究らしいね〜」ということで精査されずに埋もれたダーティー論文の存在の方が危険ではないか.

「Q3:理研は解体」?

 「Q3:理研は解体だ」という論調は,どうなんだろう.まずは組織の問題と個人の問題を切り離して考えるべきだと思う.当初私は理研からすれば「学位を持っている研究者だとおもったら,実はトンデモだった」と言えばいいだけの事なのかな,と見ていた.理研はそもそも研究者の登用も上のポジションの研究者に大きくゆだねられている.そもそも理研がどういう組織なのか,ふえるわかめの理研とどういう関係なのかを知らない人はWikipedia参照のこと.
 一方で,独立行政法人からの格上げのタイミングで,大失態をやらかしてしまった.広報部門としてもこのタイミングで年に一度の公開イベントとかを仕込んでいたのに,裏目に出過ぎだ.
 もうちょっと突っ込んだ話題としては,「STAP疑惑底なし メディア戦略あだに」(中日新聞・2014/3/15)という報道である.どうやら問題の発端となったNature2件同時採択も組織ぐるみの演出であった可能性も指摘されている.確かに普通の研究費の使い方では,カラフルな壁紙やスナフキンのカッティングシートは買いづらい.上司が許さない限りは「そんな恥ずかしい実験室にするのはやめろ」と言われそうなものであるし,その辺りは当初から指摘はしていた. 「まあそういう研究者も居てもいいよね」という当初の同情が,科学そのものの倫理が狂っているおかげで,リケジョや科学コミュニケータ,科学者,研究者,研究所マネジメント,研究費獲得など,研究業界全体への激震になってしまった.本件が組織の解体につながるとは思いたくないが,法人格の見送りは充分すぎる痛手になるだろう.もともとパーマネントのポストが少ない,1年ごとの契約で雇われる研究者が多い理研のドクターにとっては,理研を離れる理由はふえるだろう.理化学研究所自体は,大変にユニークな研究を行っている研究会の一つの頂点であるので,このような事件によって,悪循環にならない事を祈る.
 しかし,理研の研究者がいくら自由だと言っても,今回の件について公式にコメントをしている研究者は居ない.おそらく閉口令がひかれているのだと思う.当たり前のことだとは思うけど.

「Q4:剽窃は重罪」?

 「Q4:剽窃は重罪だ」という視点は正しいのだろうか.
 剽窃(ひょうせつ)とは,他人の作文を盗んで自分のものとして発表すること.
 科学に関わる人間としては「重罪」ではあるが,それを何の法律でさばくのかというと,実はそんな法律はない.文書偽造罪のどこを見渡しても,科学論文に他人の論文の剽窃や画像使い回しをした事で禁固刑や罰金刑になったりするわけではない.
 論文は私文書であり,わかりやすく言えば同人誌であり,国や公的機関の通達文書や証明書とは違い,書いてある事を信じるかどうかは書き手のモラルと読み手のリテラシーにかかっている.そういう意味では新聞だって同じ.
 しかし,私は剽窃は許される事ではないと考える.

 「剽窃を許さない科学者の会」とかありそうでなさそうだけど,そもそも剽窃を許す時点で科学者じゃない.コピペ,盗用を許すことがどれだけ悪い事か,先生方はよく理解した方がいいと思う.「学生なんだから」とか,「発想にヒントを得るとかあるじゃない」とか,いろんな情を持つ人も居ると思うが,「博士論文に無断でコピペされる側」になってみるとよくわかる.
 私は博士論文の序文を100ページ上,指導教官にカットされた経験を持つ.その部分はコピペではなく,超オリジナル.今から考えれば研究の背景にそんな大作を書いた方が「若いね」という事なのだけど,当時は悔しくて悔しくて仕方がなかった.悔しさのあまり,単著でその部分を某学会に投稿したところ,論文賞を頂いた.さらに最近出版した「白井博士の未来のゲームデザイン〜エンタテインメントシステムの科学〜」のベースとなる理論はこの頃の調査である.ストイックな博士学生だからこそ,書けるストイックな調査というものは存在する.
 時々,自分の作文とおぼしき作文を他者の論文で発見することがある.引用が正しく扱われていれば,ニコニコして読む事がもできるが,正しい論文なり著書なりを引用していない場合,イラっとする.さらに,引用部分を自説として展開していたりすると,もっとイラっとする.ちなみに私は博士論文を公開しているが,これを公開するのは勇気がいる.多くの博士にとって,博士論文は「人間としての何か」を失わなければ書き上げられないだろう.心神喪失状態の自分の作文なんて顔から火が出る,普通は国会図書館までいかなければ見られる事がない状態にしておきたい.しかし勝手に登用されるぐらいなら,初出として掲示しておいた方が,Googleが見つけてくれるので,まだ救いようがあると考えている.
 甘い先生,指導教員,主査・副査の先生方は「まあ仕方ないか」と見逃す事もあるだろう.しかしそれは危険な情だと思う.若い学生の演習レポートを採点していると,突然,不釣り合いな「美文」が現れたりする.それをすかさず「引用」ではなく「剽窃」と見抜き,指摘しないと,学生たちは「おれ,素晴らしい」って勘違いして育ってしまう.
 若い学生には自分の中のファンタジーの世界を否定しない人も居る.見聞きしたものを自分の中でファンタジーにしてしまう強い想像力で他者が否定する事が難しい,またそういう頑固な能力も,研究者にとっては必要な能力.しかし他者が追試できない場合は科学にならない,その際の引用は不可欠.例えば「インスパイア」だってそう.芸能やエンタメの世界では本人が知ろうが知るまいが,世間が共感して求めているものをどん欲に取り入れ,ソースは明かされない.科学の世界では論文の査読者が「既にこの人がやっているよ」と指摘する.本人がそう思わなかった,知らなかったと言い張っても無意味な世界なのだ.
 また研究者のもう一つの姿,「査読者」は世間にはあまり知られていないが,論文の新規性と進歩性,有用性をはかる専門家として,その分野のありとあらゆる過去の研究を知っている必要がある.特許なども同じ仕組みがある.

つまり研究者として生きる以上,「ばれなきゃいい」という発想はない.

ないはず,である.そうであってほしい.

……今回の件で研究者を目指す若い才能が歪まない事を祈る.

ガッカリはするかもしれないけど,すべての研究者がそうなのではない,いや,ごく一部であるはず.そう信じて研究者は研究をしているし,剽窃されることも心が痛むが,糞論文は引用の価値すらないので,多くの真っ当な研究者は相手にしない.ファンタジーにファンタジーでつきあってしまっては科学にならない.実験実証主義なのであるから.

一方で,世間には「博士にも小博士から大博士までいる」という認識も必要であると思う.大博士の論文はともかくとして,小博士には”本来の博士の資質”として求められる「研究分野を構築する」という能力が欠けている人もいる.つまりそういう博士は博士のベースとなるエビデンスは「有名学会に論文が数本通った」というだけであり,本質的な研究そのものに対して,ポリシーはない事が多い.右を左に,左を右に変えて,テクニックだけで渡り歩いてきた人,そういう研究.そのような論文には価値がないとはいえないが,そもそも引用されない事が多い.先生からすると,相対的に盗用される側に立った事がないから,盗用する事に対するストリクトさも弱い「バレないようにする,それもテクニックの一つでしょう」という事を平気で言う人も居る.真面目にやっている側からすれば,怒りも抱くが,それはジレンマなのだ.残念だけど.

「Q5:誤画像は絶対に許されない」?

「Q5:誤画像は絶対に許されない」,これは分野によっては意見が分かれるのではないか.少なくとも画像処理なり工学なりの世界に居る側としては「許されない,っていうか普通,ありえないよねそんなこと」というレベルの話である. WordやTeXの使い方を間違えたとしても,共著者が何人も居て「間違えましたテヘペロ」という事象が起きる可能性は,宇宙放射線の軌跡が偶然に文字生成するぐらいにありえない.そんなことがありえるなら,はやぶさ や かぐや だって,アポロの宇宙飛行士だって,北朝鮮が太陽まで行って黒点持って帰ってきた事だって,全部同じレベルで「ありえる」といえる.証拠があるのだ,ないとはいえないだろう.

ちなみに画像を加工して掲載したとしても,手を加えたら人間の目で見えなくたって,調べれば,その加工の形跡ぐらいは見える.他人の画像を回転させたりして使った人も居るようだが,Google画像検索はこのような同一画像を見事に見つけてくることができる.そういう技術を知っていたら,普通はやらないし,そんな幼稚な事はしないはず.

研究の業界によって,画像の扱いは異なるのかもしれないけど,証拠としての性能が高いなら,なおさら大事に扱うべきではないか.CGの研究分野ではティザー画像が同じであれば「既に発表済み論文」として査読者に指摘される.感覚的・経験的な数字であるが,論文の内部で10個の画像を使っていたとして,3個の画像が過去論文(もちろん自分の論文だとしても)に掲載されたものと同じであれば「新規性がない」という指摘をされる事もある.

ただ「こういうルールで見てください」という査読者への指示がない場合もあることも確かだ.

「Q6:共著者も同罪」?

 科学の論文には筆頭著者(ファーストオーサー)がいて,共著者がいる.あまり一般には知られていないかもしれないが,例えば工学の分野では論文の著者に「Aさん,Bさん,Cさん,Dさん」という感じに並んでいる.Aさんがファーストオーサーで,Dさんが指導教員とか大御所,BさんがAさんの次に貢献度の高い人,Cさんあたりは研究グループのボスとか,お金を出してくれた人,という感じが普通の構成.
 まずはAさんが論文を投稿するときに,BさんもCさんもDさんも,精読しているべきである.そもそも「こういう論文書きます」「こういう論文書きましょう」「こういう学会や論文誌に投稿しましょう」という話をB,C,Dさんも理解しているはず.例えば「日本トンデモ学会に投稿しましょう」と言ったら,共著者は反対するチャンスがある.同意できないなら名前を外せばいい.もっと同意できないなら,研究費を止めるとか,いろんな方法があるわけで.
 B,C,Dさんが査読者以下の読み方しかしていないとすれば,それは傲慢な事だと思う.「責任が持てない」という事であれば,そもそも名前を載せてはいけない.また,一度書かれた論文を採択後に「確証が持てない」と言い出したりする事も,滅多にあってはいけない事だと思う.それは研究品質そのものが杜撰であるという事だし,研究者の所属組織も,そうやって「有名論文誌に論文をバンバン通せ」とプレッシャーをかけたあげく,不正や不誠実な行為を行う結果を呼んでいるという認識をするべきではないだろうか.
 今回の論文はB,C,DさんについてはAさんのホームページでは「et al.」(その他)となっている.

Obokata H, et al. Stimulus-triggered fate conversion of somatic cells into pluripotency.
Nature 505.641-647 (2014)
[Pub Med]  [Nature]

Obokata H, et al. Bidirectional developmental potential in reprogrammed cells with acquired pluripotency.
Nature 505.676-680 (2014)
[Pub Med]  [Nature]

 誌面に制約のある論文中ならともかく,あまり迷惑をかけたくない,もしくは特に関わってもらってないけどね,という気持ちの現れだったのかもしれない.憶測の域を出ないけど.
 主著者にせよ,共著者にせよ,取り下げを提案する事は勇気がいる.
 大抵の場合,共著者は研究所のボスであるし,生活そのものを握られている可能性があるから,共著者の誰かに「いいよいいよ,このままバレなきゃいいよ」って言う発言する人が一人でも居ると,よっぽど勇気がない限り,かつ他組織に所属している確固とした基盤のある研究者でない限り,反論する事は難しいだろう.
 それはつまり,多くの場合,ポスドクであり,捨て駒として使い捨てられたのは他でもない主著者である.
 所属組織は,組織ぐるみではないということを示す為に,共著者のひとりひとりの潔白さを洗わなければならないし,そうしないと,過去の論文までさかのぼってそのような体質がなかったかを調べる必要が出てくる.
 さらにいうと,もし研究者がクロだったとして,世間的に生きていけるのかどうなのか,難しいところがある.
 そこに情は挟まれるのだろうか,情は必要なのだろうか.
 

「Q7:魔女は裁かれるべき」?

 自分でこのタイトルを書いていても恐ろしいなと思うのだけど,これは「魔女狩り」なのだと思う.
 我々研究者は,不可能を可能にする「魔法使い」のような存在でもある.
 魔法が成功すれば富も名声も得られるだろう,しかし舞台が大きければ大きいほど,そのトリックを暴こうとする人も多い.「そもそもトリックなんてないよ!これは科学という名の魔法なんだから!」ということが「本当のところ」だったとしても,一度でも魔法のタネがあれば,人々は必ず「トリックがある」と思って見る.
 つまりこの事件は,科学という魔法に対しての世間の「魔女狩り」なのである.
 魔法なんてない,と人々は信じたい.だから魔女は異端であり,磷付にして,焼けという.
 しかしそれは,文明社会の野蛮人そのものではないだろうか.
 科学なんてそもそも誤りだらけなのだ,加えて言えば今回の事件は研究者が誤っているのであり,研究倫理の問題なのであり,科学の誤りと混同してはいけない.
 また,そもそも研究者としての不適格の烙印が押された人間,博士論文の撤回や社会的に顔や名前が晒されてしまった研究者は,どこで生きていけばいいのだろうか?
 社会が科学的手法を理解しているのは,よくわかった.
 科学者は清廉潔白で,白衣を着ていなければならない,とみんなそう思っている,
 そういう考え方も,強いのだろう.
 しかし,本質的な研究というものは「現在の世間が『そうである』と思うか思わないか」には関係がない.
 例えば査読者に「科学の歴史を愚弄している」と指摘されて,涙で枕を濡らした,それは仕方ない.
 愚弄してしまったのだから,泣こうがわめこうが,反論しなければ,潰される.
 ちなみに潰す側も満足が得られるわけではない,当たり前の事を指摘しているだけだから.
 そういう意味では,近年まれに見るマッドサイエンティストたちが引き起こした事件なのであり,人々が個々にこの問題をどう理解するかについて,研究や教育,科学を伝える場に関わる人々は,整理して考え,分析していかなければならない.
 罪を憎んでも,全然違う船に乗っている人を憎んだり裁いたりしていいのだろうか.
 まあ「税金でやっている研究」だといえば,「同じ船」なのかもしれないけど,魔女は魔女なりに静かに静かに世間を恨みながら生きていく余地ぐらいはあってもいいと思う.
 私自身も,性別はともかく,魔女みたいなマイノリティであることは間違いないし,
 情はかけなくても,かけられなくても,生きていく場所を探していくしかないのだから.

一旦のまとめ:コピペ論文はなぜいけないのか?

今回の件は,社会や,研究所という所属組織も絡んでくる研究倫理の問題であるといえよう.

 大学の先生や,研究に関わるものが,自分の事としてとらえなければならないし,従来の「研究倫理」と呼んでいたものをさらに広くとらえるチャンスでもある.
 これによって,ただでさえ,好きな研究を継続する為に,余計な事を考えなければならない研究者が,さらに余計な事を考えなければならないということである.悪い事ではないのだけれど,めんどくさい.
 また「科学的思考」という点についても,文部科学省は見直しをするいいチャンスではないだろうか.科学教育なり理系教育なり,ジェンダー教育なり,作文教育なりといった,「科学的思考」の根底が,「他人の作文を丸写しする事が基礎」とするのであれば,それ以外の方法についても初等教育から見直すべきではないか.
 コピペ論文はなぜいけないのか?
 写経すればいいのか?
 世間的には「当たり前のこと」ではあるし,けれど,なかなか,簡単に回答が出せる話でもないことは,世間全体が把握するべきだと思う.
 小保方さん自身は,日本で生き恥をさらしながら生きていくチャンスもあるかもしれないが,まずは日本で生きる必要はないと思う.自殺とかは絶対してはいけない.「死ねば許される」という思想を強化するということの社会的罪を加える事になる.それぐらいであれば生き恥をさらしながら生きて,世間を見返す活躍をした方がいい.
 もっと建設的な生き方もある.日本という狭い世間を追われ,性に合わないので海外で活躍している研究者は沢山いるし,科学的に誤った作文しかできない人であったとしても,ラボエンジニアとして生きる道だってある.
 コピペ論文は麻薬のようなもの.
 指導する側は,厳しくオリジナリティについて指導するべきである.
 間違っても褒めたりしてはいけない.
 学位さえ与えなければ,研究者として登用される事もなかった.
 研究者としての才能がない学生に対しては,先生は「上へ上へ」とは言ってはならない.
 コピペ論文に情をかけて,ザル審査をしてはならない.
 回り回って,社会も巻き込んで,回復不可能なダメージを受けるのだ.
 今回の件で研究者を目指す若い才能が歪まない事を祈る.

先生たちも,襟を正そう.

シアトルの地にて,一旦の筆を置く.