先日のエントリーで、コメントくれたOzくん、ありがとう。 http://ameblo.jp/akihiko/entry-10270757519.html#c10360940492 その後、昨日。 息子が学校の池に落とされたらしい。 体操着を着て帰ってきた。 日本の幼稚園のころは「学校のことはネットに書いていけない」というルールが あったので、 遠慮していたのもある。というかいじめとか事件らしい事件がほとんど起きな かった。 <以下断片的な状況証拠> 本人はあまり話したがらなかったので、断片的でしかないが。 (本人からの状況認識だけをベースで読み取っている、それが本人の世界なので) 学校の池にカエルがいたらしい。 ・学校の池に入っていけない、というルールがある しかしなぜか ・カエルの重さを測りで測ったらしい  数字まで言っていたので、これはやはり測ったのだろう。  しかも測りは学校で子供が手に届くところにはないはず ・後ろから突然池に突き落とされた 息子は、カエルをいじめるのはよくない、と思ったが (測りで測るのは楽しかったような感じではあるが) 周りはそういう雰囲気じゃなかったんだそうだ。 何か発言したが、理解されずに、いきなり発言に対してのリアクションとして 池に落とされた、という感じだったようだ。 秤などは子供だけでやれることではないので、 どこかで大人(たぶん担任の先生)が そういう雰囲気(カエルをつかまえて玩具にするような)を 作り出していたのだろう。 そこまでは百歩譲って認めるとしても、 息子の主張である「カエルがかわいそう、そっとしておくべき」という感覚は無 視され、 安全管理義務も怠った。 これが池だったから濡れて泣くだけですむが、 屋上で日食みてたりしたら、どうなるわけ? 最近、だんだんエスカレートしてきているのを感じる。 子供たちはそれがあたりまえと思っているだけで、 集団の中で自らの持つ残虐性とか、 モノカルチャーであることへの疑問、 教科書で言っている行動規範と実際の大人(先生)の行動乖離。 …平たく言えば、大人の様子見ながら、子供が悪さしていく、という過程にあ るわけだ。 まずは息子自身が強くならないといけない。 (1)言いたいことは言う  本人に「やられたらやり返さないの?」と聞いたら、それは違う、と反応された。  しかし場の雰囲気は、そうではないらしい。  ビシッと自信を持って、誰よりも早く発言しなければならない。  異なるイデオロギーの存在は認めてもいいが、  中間的なその場にいる「たくさん」にその両側の意見を共有させなければ、  モノカルチャーがその場を支配して、数の暴力が生まれる。  マイノリティ=悪、駆逐される対象、になってしまうのだ。 (2)同じ感覚の友達を探す。  息子と同じ感覚の子供は男女関わらずいるはず。  彼らも同じように疑問を抱いているが、発言できないだけ。  そういった感覚の、話ができる相手を子供のコミュニティの中で探さなければ ならない。  場合によっては話せばみなわかる、ということもある。 (3)自分の身は守る。  突き飛ばすようなのは友達だと思われてない、そこにいるクラスの子、という だけ。  信頼が置けない子供に近づいてはいけない(先日いきなり噛まれた、という例 もある)。 先生とバトルしたり、引越ししたりする、という選択肢も無いことはないのだが、 息子自身が強くならなければならない。 だからといって悪いのは息子ではない。 「自分と社会との関係」において生じる摩擦について、彼自身が解決しなければ。 思い起こせば、自分も小学校2年ぐらいが一番つらい自己との闘いだった。 (いろんな事件や理由があるのだが、ここでは割愛) 一番大きかったのは、担任の先生に親の前で「この子は自閉症です」といわれた ことだ。 家庭は突き放すしかなかった。「たくましく」という言葉の元に、 物事を非常に荒っぽくとらえることが行動の中心におかれた。 自身がもともともっていた「丁寧に物事にこだわること」は、悪と認定された。 そこで間違えていなければ、3-4年生のあのような性格崩壊はなかったし、 5-6年での卑屈な自分も無かったと思う。それはそのまま中学出るまで引きずっ たし、 高校では逆にキレ過ぎた。 父親から見たWeb2.0で、この問題を救うことができるのだろうか。 父親としてはまず、子供の社会に立ち入らずに、自分自身で克己してほしい。 皆さんの意見も聞きたいところ。 ・このような記憶があるか ・いじめからどうやって乗り越えたか ・別の視点で何かコメントがあるか ただし「いじめられたことがない」とか「たくましくない、男らしくない」とい う意見はあえて不要。