なんだかこの話題、mixi日記でも盛り上がっているので続きます。。。 あたらしい数理の理解を「教える」…正確には「ひらめかせる」ための手法というのは、実はものすごく大変な作業なんですよ。 ゲームデザインで例えて言えば、FFの戦闘シーンで「たたかう・にげる・まほう」以外に新しいコマンドを思いつく、ぐらいの大変さ。 たとえば「分数」なんて『無くても生きていける』といえばそうなんだけど、それは剣士として生きていく道を選ぶようなもの。PCや電卓使うのは強い武器を装備するだけのこと。 たとえばWebサイトの画面のレイアウトをやるときに「左、三分の一」とかそういう概念すらなくなってしまう(33%+33%+33%+残り…という表現になる、今のHTMLってそうだけど)。 因数分解を使えばウソみたいに速く計算ができるのに、方程式を解けば未来も過去も予測できるのに、三角関数を使えばきれいな絵を描いたり、野球が上手くなったりするのに…と、もとから算数や理科には無限の宇宙が広がっているのに、キャラや解法への道筋を隠蔽することで、余計に遠回りしているんだよな。どうせ遠回りするなら、数学の世界で遠回りするべきで。 視点かわって、教材販売の営業さんとかも苦悩しているんじゃないかと思う。本当なら現場の先生が、一番問題を感じているわけだけど、現場過ぎて、個々の改善事例については実践例をもっていそうだけど、根本的な問題、たとえばカリキュラムだとか、担任・多教科にまつわる問題が大きすぎて、理数教育そのものが「変わらなきゃいけない」という現実に対処できないまま来ちゃったんだと思う。本当はここで営業さんたちが、現場の潜在的なニーズを汲み取って「斬新な教科書」と「保守的な教科書」の両方を作っていかないといけないんだろうけど。 先生方だって、暗算力や九九の暗記で終われれば、自分たちの経験や教育を生かせるから、それほど難しいことではないんだろうけど「コンピュータ時代になぜそれを?」という根本的な問いには先生自身が回答を出せないまま10年以上過ぎてしまったんじゃないだろうか。 確かに一部の先生方は立派な情報教育のハンドブックを作っていらっしゃいますが、多くの実践の場では、WordやIEの使い方、ネチケットを教えるのが精一杯になってしまうのは否めないと思います(子どもたちにはそっちの方が無限の宇宙に見えるだろうし)。 じゃあアランケイの「スクイーク」やNTTの「ビスケット」が”すべての解法”になるかというと、それも否だと思う。 数理を使って自由に表現する環境を与えることと、良質なお手本(教科書)を与えることは、順番を逆にしてしまうと、全く画一的で、パターン化されたアウトプットしか得られないという現象はピアジェを引用するまでもなく経験が知っている。 欧州の美術教育に目を移すと、ドイツに行ったときに、子どもの絵に定規が使われていることを見つけて大変驚いた。フランス人の学生にきいたら「普通だよ、日本では使わないの?」と一言。 私の中学出るまでの美術教育では「定規は禁止」だった。明らかにデザインよりも油彩・日本画出身の先生が主流だったからではないだろうか。そういえば教科書の「優秀作例」のようなものも、なんだかいつもゲイラカイトみたいな手と、黄色すぎる顔を真正面から、ちょうど五味太郎のような作例ばかりあって、なんだか理解できなかったのを覚えている。その割には「正しい木のてっぺんの描き方」を聞いても教えてくれなかった(下から見てるだけでは絶対描けない)。 『自由に描く』ことも大事だけど『写実で自由に描く』事もちゃんと正しいと言ってほしかった。 ちなみにウチの研究所には市民ギャラリーが併設している。いま、地元の小学校の児童作品が展示されている。造形作品は日々のストレスを晴らすかのような『これでもか!』といわんばかりの大爆発リサイクルアートだけど、ちゃんと土台には乗っている(乗ってないと展示できない)から。 さらに、コピーアートも面白い。アンディー・ゴーフォルよろしく、適当なモチーフを9枚コピー機にかけて、それに思い思いのモディファイを加えていく。 学校の国語の教科書の同じページの見開きに「いろんなテーマでラクガキ」してみるだけでも、立派な作品だ。色だけ変えたような作品なんてひとつもない。 モダンアート王国なフランスだから、というところもあるけれど、じゃあゲーム・マンガ大国の日本はどうなんだろう? やっぱりマンガ教科書は、自分で作る過程がないと昇華できないだろうな。楽しいマンガ教科書を描くために、数理を勉強するような子どもが沢山でてくればいいんだけど。