IGDAのコミュで新さんがつぶやいていたものに発言した内容を多少(かなり)手直ししたものをBlogとして残しておきます。 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=4322614&comm_id=113067 書き終わってから気がつきましたが、ほとんど論文になってしまいました。 「ゲームの脳内汚染問題」自体には、国や文化、世代や、これまでの市場の育ち方の問題などがあるので簡単には解釈できないものが多いのですが、博士の研究を始めた2001年ごろから「面白さを測る」というテーマに長年触れてきたつもりではあります。 当然、その間には公開できないような実験も多々あるわけで… ・質問表を使った統計手法 ・血流や心拍を使った測定方式 ・脳の可視化手法 この3つについてはかなり力強く否定できることを書き残しておきたいと思います。 特に、後ろの2つは機材にお金がかかるので、要注意です。予算を取ってしまったが挙句、引っ込みがつかなくなり、過去の研究とも、ゲーム特有の問題とも関係のない論理を展開している論文も少なくありません。 私はこのパラドックスから抜け出すために、2002-2003年ごろに、ある方針をとることにしました。 『”遊び”を客観的に・物理的に測定する方法はあるのか』 『そもそも”遊び”とは何なのか?』 これを解決すれば、ほとんどの議論が無駄にならずに済みますので。 そこで、遊びに関する研究がかつてどれぐらいあったのか、を調べることにしました。それはゲームやエンタテイメントそのものに限らず、アートや先史時代の壁画、つまり「人類の不可解な行動の要因」まで思索をめぐらすことになったのです。 結局のところ、この予備調査はかつては科学とともにあった哲学や文学、そして近代現代になり教育学・心理学へと結びついていきました。1980年代では心理学からコンピュータサイエンスに結びつきます。 これらの論文や著書をひとつひとつ紹介することは楽しいのですが、ここではやめておきます。しかし、そのどれもが、確実に、サイエンスとしての基盤を持ち、確固たる論理に基づいた展開と検証がされてきたものばかりでした。実例を挙げられない机上の空論や、社会的背景による偏重はむしろ少数と言ってもよいでしょう。 ただし同時にこの手の「遊びを科学する」という行為が、他の研究者により「研究者の遊びだ」と否定された時期もあることは否めません。歴史を振り返ると、研究者の数が増えて、実際に読んでいても全く興奮も楽しみも覚えられない「机上の空論」、言語的・教育的背景が変われば全く役に立たない「論理的遊び」が多くなっていき、また戦争や経済成長などの社会的背景により、この手の雑雑とした研究は歴史の流れにかき消されてしまっています。それが「遊び研究の歴史」ともいえます。 これらの「遊び研究の常識」として挙げられる書籍は、ナムコ創業者である中村氏がヨハン・ホイジンガをよく引用していたため、遊ぶ存在としての人間「ホモ・ルーデンス」があまりに有名ですが、実際には歴史家・言語学者としての視点であり、現代の「遊び」理解の助けとしては、後世フランスの思想家ロジェ・カイヨワ「遊びと人間」のほうが読み応えがあるとおもいます。 ただし両書とも邦訳は現代日本人の感覚では「難解な思想書」かもしれません。実際、いくつかの論理の展開や事例において、時代遅れになっていたり、適切な言葉が変わっていたりするものも多くありますので。 さて、やっと本題に入りたいと思いますが、上記のような歴史的背景から「遊びを研究する」ということは非常に難しいことであります。ホイジンガなどは「無理」とかなり強く否定した上で自説を展開しています(これはおそらく周囲に愚鈍な論理を展開する説が多くあったから、と推測しますが)。基本的には遊び、そして楽しみ(pleasure)は、その解明に畏怖をもって接するべきであろう事を改めて記しておきます。しかしこれは非常に重要なことでもあるのです。 調べてみると「ゲーム脳」に近い論争は1985年ぐらいでも既に発見できました。多くは学習教材産業、実践教育関係、婦人団体などの調査です。つまり調査のコンセプト自体が、反ゲームなのでデータとして使えません。多くのデータがアンケートを基にしており、「ゲームばかりやってると勉強は落ちこぼれて、体育能力も落ちて、目も悪くなり、性格は暴力的になります」というものです。全く持ってその通りなのかもしれませんが、この時期のデータには「でも、こんなよい効果もある」という視点のデータがほとんどありませんでした。当の子供たちは、ドラクエで算数を覚えたり、FFで漢字を覚えたり、こう着状態から抜け出すための方法論を学んだり、見たこともない世界観に想像をふくらませたり、マンガを描くきっかけを生み出したり…と、高度経済成長期に求められた生産性・能率性から離れた場所での「何か」を得ていたわけです。それが説明できた子供はほとんどいなかったので、そのときは単に落ちこぼれた訳ですが。 いずれにせよ、この種の研究を行なう上では「科学から離れてはいけない」と強く念を押しておきます。また仮にこの研究を行なうことで、既存の市場にプラスになるとかマイナスになるとかいう前提もできれば避けたほうがいいと思います。基本的には社会の常識と反することを、おそるおそるやる、という意識がないといけないのでは、と常日頃感じています。 またこの手の研究を行なう上で、行動分析、脳科学から書籍や人をつれてくるのはよいかもしれませんが、実際にはこの手の先生方が「どれぐらい遊んできたのか」というのが気になります。ゲームのやりすぎで落ちこぼれたこともない先生が、ゲームの研究をするのは、勉強のしすぎで恋愛もしたことがない先生が「愛の公式」を打ち立てるのに似ているような気もします。 また、一般論ではないかもしれませんが、こっち系の研究者のほうが、より一般常識的な人間性に反する実験に肯定的だったりもして、余計に混乱を招くかもしれないなとも思います。 まあ、知能科学システムで博士をとった自分が言うのも変な話ですが、例えば、離散数学やサイバネティックス、霊長類脳の研究などは、さわりだけ学んでも一般人には理解に苦痛を伴うし、より多くの誤解を生むのではないだろうか、と思います。 そんな訳で、私自身は、普段行なっている応用よりの科学研究&応用開発とは別に、このテーマで長い時間をかけて、フィールドワークを展開しているともいえます。ホイジンガも世相にまけず長生きした研究者ですが、私も出来るだけ長生きして、遊びを研究し続けたいと思います。 さて、このアーティクルにある表題についてですが、CEDECや、より学際分野にいる研究者、それからゲーム関連企業の研究者に扱って欲しいなと思う研究題材は、例えば「脳内トレーナー」のような実際の製品を利用してフィールドワークとして以下のような項目に注目して調査を行なってみて欲しい、という点です。 ・実際に脳がトレーニングされているのか ・何時間ぐらいで効果があるのか ・実際に購入してプレイしている人がどれぐらいの期間、頻度でトレーニングしているのか ・それは面白いと感じているのか(ここだけ主観評価) などを科学的手法(これは大学2-3年レベルの科学ですが)で、客観的な実験とプロファイリングを行なうべきではないかと思うのです。 仮にも「○○大学教授」と銘打って発売されるわけですから、自説ではない、またファミ通レビューでもない、より客観的方法で遊びと脳トレーニングの関係を明らかにして欲しいと思うのです。 手法としては、アンケートを出来るだけ使わない、行動分析、物理量評価になり、過去の視覚工学や心理物理手法が多く利用できます。ただし、評価手法だけが違います。「脳トレ」の脳活性については、私は専門ではないので某大学教授にお任せしますが、遊びに関しては従来の心理物理手法における「よく追従した」、「誤差少なく知覚できた」ではなく「長く遊んだ」とか、「繰り返し遊んだ」といった指標でデータを再評価し、グラフを描画するべきです。 ここで、私が「遊びの定義」を最初に研究した理由がわかっていただけたでしょうか? 「物理的に遊んでいる状態」と判断するためには「遊びの定義」が不可欠だからなのです。 信号的には「コントローラーから手を離す」、「瞬きをする」などでかなりのフェーズの変化を拾うことができますが、「自由にやめることが出来る」、「実生活と非連続」、「非生産性」などの『遊びを構成する要素』は実験を設定する上でかなり重要な要素になります。 それにしても脳トレも北米で発売されますし、ほっておくと、似たような「まがい脳トレ」が沢山出てくることが予想できます。新たなエンタテイメントシステムを生み出すのは難しく(遊戯者が新しいシステムを受け入れられないこともある)、コンテンツ面で似たようなもの、簡単に言えば「真似」をすることもコンピュータ・ゲームの歴史のひとつの側面ともいえますので。 しかし個人的にはこの手の「トレーニング装置」としてのゲームばかりが売れ続けるのも良いことではないなと感じています。 先にも述べたように、遊びは本来、非生産的で、実生活に直接役立つべきものではないので。 このあたりの話は拙著「エンタテイメントシステム」という論文に、過去のエンタテイメントシステムの実例とともにまとめてありますのでご参考ください。 http://www.art-science.org/journal/v3/award.html 同様のタッチパネルを利用した新しいジャンルのゲームとして「エレクトロプランクトン」や「Nintendogs」が挙げられますが、これらはゲーム(かどうかも難しいところですが)をプレイする動因が不明な点が多いので、調査をするに値しますが、「脳トレ」については、製作者側が確固たる科学的データとともに脳活性を論文として発表する必要があると思います。 「脳トレ」の製品紹介としてはこちらにあるわけですが、 http://www.nintendo.co.jp/ds/andj/introduction/index.html 日立製作所製の光トポグラフィーはたしかに脳の血流測定することができますが、まだ登場から3年程度の歴史しかなく、議論の余地が多々あります。 ・血流が活性化するとどうなるのか? ・有酸素運動なのか? ・光トポで測れない新皮質以外の脳部位の活動は? シナプス、他の受容体、例えばイオンチャネルは? ・一日あたりの適正なトレーニング時間は? ・数年間、同じトレーニングを繰り返すと脳に変化は現れるか? ・「脳トレ」が面白いかどうかを脳科学的に考察して欲しい たとえば、前頭前野に着目するのはよいが、知っての通り、脳は頭蓋骨で固定されており、成年であればほぼキャパシティは一定である。つまり筋肉などと違い、前頭前野を強制的に鍛え続ければ、他の部位は圧迫されるということになります。 また強化学習(Reinforcement Learning)的視点から見ても、「脳トレ」をやることで、人間の脳がどのような報酬を得ているのかも興味がありますし。 某大学教授の最近の和文執筆についてはここにリストがあります。 http://lbc21.jp/temp/hokoku15/contents/thesis/allotment.html http://lbc21.jp/temp/hokoku15/pdf/121-140/123.pdf 光トポに関わる著書ばかりであんまり論文がないのが残念ではあります。 せっかく、沢山売れて、マスとしても資金的にも経年的にも調査する可能性があるので、ぜひともまじめな論文を沢山書いてみてもらいたいのです。ほとんどの脳科学研究はせいぜい10-20人程度、多くても100人程度、その中でも30-40%が「有意」であれば有意なので(仮に50%越えを境としても個体差が大きいのでコントロール条件で外れてしまう)、このような脳科学研究の仮説に基づいた試験環境・追試環境はあまりないといっても過言ではないのです。 しかしまあ私としては「脳トレ」は既に「遊び」ではないので、興味の対象から外れているということは最後まで読んでいただいた方は理解できると思います。それに光トポは2001年に日立で働く友人に頼んで使わせてもらおうと画策しましたが、いろいろな理由(fMRIのほうがデータは多いetc)から見送りました。最初に書いたようにまた測定器依存の脳研究というのも非常に脆弱であることもよくわかっているので、これからも簡単には手を出さないでしょう。 私の推論に過ぎませんが、「脳トレ」の報酬は「脳の汗」ではないかと考えます。運動不足の筋肉を軽く動かして汗をかくと脳は喜びます。また新しい能力を獲得する過程、つまり学習自体にも報酬があります。これにはゲームプレイにおける「掌握・支配欲」が大きく寄与していると思います(これはかなり古い論文で触れていますが私自身、再考したいので引用はしません。他に達成感、爽快感、ゲーム性など…)。しかし、この「支配欲」などは典型的な例で、人種や文化、教育や職種に比較的依存がある要素ともいえます。これが「脳トレ」の面白さの個々人の違いであり、継続してプレイするための動因、裏返せば「飽き」とも関連が出てきます。 北米展開のあと、さらに欧州などにも展開されると予想しますが、ヨーロッパで「脳トレ」は全く売れないかもしれません。逆にちょっと味付けを変えると、DSはゲーム機ではなくトレーニング機器として大きな市場を得るかもしれません(それ以前に、手法だけ真似られてPCで似たようなフリーウェアが沢山出回るかもしれませんが…)。 某大学教授とは全く違った手法で、「面白さ」を科学的に測り、研究するというアプローチは続けていこうと思います。
補足ですが、ここの東北大のインタビューは面白かった。
http://www.tohoku.ac.jp/japanese/interview/0401-int-kawa-index.html
ポジトロンCTかあ…。基本的に研究方針については否定する気はないんだけど、なぜ光トポに走ったのか、も聞きたかったな。あと、スウェーデンのローランド先生のところで大学院のあと2年間学ぶまで、脳研究のやり方、データ処理の仕方、論文の書き方などを学んでこなかったというのがすごい。その後「帰国し、その後は持ち帰った技術を日本で広めるということを始めました」ということで、一般書籍がずっと続いてるんだな。まあ価格は安いとはいえ、100万本超えタイトルだもんなあ…。
http://www.geocities.jp/hai_ohayo/kawashima/ranking.html
私もがんばるか。