コピペ論文はなぜいけないのか

小保方さんにはガッカリさせられた,という人も多いだろう.

 私自身もブログエントリー「小保方さん、今後の科学報道の在り方さえも変えた研究者。」でもいろいろな事を書かせていただいた.
 様々なご指摘を頂いたりして,修正もしたけれど,疑惑が明らかになったあとも,取り下げるつもりはない.
 むしろこの事件は,科学の倫理と報道について,我々や市民に大きな問題を投げかけていると思う.
 科学の本質について問い直すいい機会なのだ.以下,中高生でもわかりそうな話としてまとめたい.
こんな思考実験をしてみた.

小保方さん問題でわかる科学リテラシーと科学的野蛮人テスト。

Yes/Noで考えよう。
Q1:学位論文は無効だ
Q2:Nature論文は撤回すべきだ
Q3:理研は解体だ
Q4:剽窃は重罪だ
Q5:誤画像は絶対に許されない
Q6:共著者も同罪だ
Q7:魔女は裁かれるべき

自分なりに巧妙に選択肢を作ってみたつもり,
なお”現時点での”私の回答は「NNNYYYN」である.

「Q1:学位論文は無効」?

 まず「Q1:学位論文は無効になる」のだろうか.
 一度認めた学位認定を剥奪する仕組みがあるとは思えない.
 その学位認定機関の信頼が落ちるという事でしかないように思う.
 もしかしたら「剥奪」という仕組みが有る大学も有るのかもしれないが,少なくとも私が「博士(工学)」を頂いた東工大にはないと思う.
 論文の構成や再現性などによって「博士(工学)」か「博士(学術)」かといったディスカッションはあったと思う.私自身は博士をとれたのは軌跡だと思うし,もんのすごいプレッシャーで,審査の過程で泣き崩れた事もあった.
 私が後世に,「博士として不適格だ」と東工大に指摘されたら,それは受け入れるしかないだろうな.
 もしそういう仕組みがない,しかも自分が博士として不適格だと認めるなら,名乗らない.それだけのこと.
 博士の学位というものは,そもそも大型二種免許のようなもの.大学の先生や研究者という特殊業務に就かない限り,必要はないのだ.医師免許は別ね.大学の先生の中にも博士を持っていない先生は沢山いらっしゃるし,博士を持っていて,一定の期間に一定の論文を書いているということが求められる審査基準があり,その物差しのなかでは重要な意味を持つのであって,博士を持っていないから,あの先生は駄目だ,とかそんな感覚もおかしいと思う.
 単に,博士を持っていないと,学位を与えてはいけない,指導者として不適格,そういう理解でいい.

「Q2:Natureは論文を撤回すべき」?

 そもそも科学は誤りだらけである.誤りは新しい実験や証拠,仮説によって正していかなければならない,というスタンスを取れば,Natureにおいてもリジェクトできなかった論文を,「なかった事」として,消滅させるような仕組みはないのではないか?と「私自身が勝手にそう思った」.
 「そう思った」では科学の方法ではないので,ちゃんと調べてみたのだが,実際にはNatureでも問題になっているようだ.
Science publishing: The trouble with retractions A surge in withdrawn papers is highlighting weaknesses in the system for handling them.
http://www.nature.com/news/2011/111005/full/478026a.html
 Withdraw(取りさげ)やretractions(撤回)が過去10年間で44%の上昇とは,記事にある通り,査読システムの問題もあるとは思うが,そういった論文自体が横行している雰囲気もあるのではないだろうかと邪推してしまう(私はNatureに論文を出す分野ではないのでわからないけれど).ただ,撤回する主体者はNatureではない,著者から申し出るべきであろう.出版する,ということはそういうことなのだ.社会的に,研究界的に,衆目に晒され,引用される事で,物事の正当性がはかられる.つまり,これらの論文はむしろ「消し去られてはいけない」存在であり,今後,引用され続けるべきである.むしろ「すごい研究らしいね〜」ということで精査されずに埋もれたダーティー論文の存在の方が危険ではないか.

「Q3:理研は解体」?

 「Q3:理研は解体だ」という論調は,どうなんだろう.まずは組織の問題と個人の問題を切り離して考えるべきだと思う.当初私は理研からすれば「学位を持っている研究者だとおもったら,実はトンデモだった」と言えばいいだけの事なのかな,と見ていた.理研はそもそも研究者の登用も上のポジションの研究者に大きくゆだねられている.そもそも理研がどういう組織なのか,ふえるわかめの理研とどういう関係なのかを知らない人はWikipedia参照のこと.
 一方で,独立行政法人からの格上げのタイミングで,大失態をやらかしてしまった.広報部門としてもこのタイミングで年に一度の公開イベントとかを仕込んでいたのに,裏目に出過ぎだ.
 もうちょっと突っ込んだ話題としては,「STAP疑惑底なし メディア戦略あだに」(中日新聞・2014/3/15)という報道である.どうやら問題の発端となったNature2件同時採択も組織ぐるみの演出であった可能性も指摘されている.確かに普通の研究費の使い方では,カラフルな壁紙やスナフキンのカッティングシートは買いづらい.上司が許さない限りは「そんな恥ずかしい実験室にするのはやめろ」と言われそうなものであるし,その辺りは当初から指摘はしていた. 「まあそういう研究者も居てもいいよね」という当初の同情が,科学そのものの倫理が狂っているおかげで,リケジョや科学コミュニケータ,科学者,研究者,研究所マネジメント,研究費獲得など,研究業界全体への激震になってしまった.本件が組織の解体につながるとは思いたくないが,法人格の見送りは充分すぎる痛手になるだろう.もともとパーマネントのポストが少ない,1年ごとの契約で雇われる研究者が多い理研のドクターにとっては,理研を離れる理由はふえるだろう.理化学研究所自体は,大変にユニークな研究を行っている研究会の一つの頂点であるので,このような事件によって,悪循環にならない事を祈る.
 しかし,理研の研究者がいくら自由だと言っても,今回の件について公式にコメントをしている研究者は居ない.おそらく閉口令がひかれているのだと思う.当たり前のことだとは思うけど.

「Q4:剽窃は重罪」?

 「Q4:剽窃は重罪だ」という視点は正しいのだろうか.
 剽窃(ひょうせつ)とは,他人の作文を盗んで自分のものとして発表すること.
 科学に関わる人間としては「重罪」ではあるが,それを何の法律でさばくのかというと,実はそんな法律はない.文書偽造罪のどこを見渡しても,科学論文に他人の論文の剽窃や画像使い回しをした事で禁固刑や罰金刑になったりするわけではない.
 論文は私文書であり,わかりやすく言えば同人誌であり,国や公的機関の通達文書や証明書とは違い,書いてある事を信じるかどうかは書き手のモラルと読み手のリテラシーにかかっている.そういう意味では新聞だって同じ.
 しかし,私は剽窃は許される事ではないと考える.

 「剽窃を許さない科学者の会」とかありそうでなさそうだけど,そもそも剽窃を許す時点で科学者じゃない.コピペ,盗用を許すことがどれだけ悪い事か,先生方はよく理解した方がいいと思う.「学生なんだから」とか,「発想にヒントを得るとかあるじゃない」とか,いろんな情を持つ人も居ると思うが,「博士論文に無断でコピペされる側」になってみるとよくわかる.
 私は博士論文の序文を100ページ上,指導教官にカットされた経験を持つ.その部分はコピペではなく,超オリジナル.今から考えれば研究の背景にそんな大作を書いた方が「若いね」という事なのだけど,当時は悔しくて悔しくて仕方がなかった.悔しさのあまり,単著でその部分を某学会に投稿したところ,論文賞を頂いた.さらに最近出版した「白井博士の未来のゲームデザイン〜エンタテインメントシステムの科学〜」のベースとなる理論はこの頃の調査である.ストイックな博士学生だからこそ,書けるストイックな調査というものは存在する.
 時々,自分の作文とおぼしき作文を他者の論文で発見することがある.引用が正しく扱われていれば,ニコニコして読む事がもできるが,正しい論文なり著書なりを引用していない場合,イラっとする.さらに,引用部分を自説として展開していたりすると,もっとイラっとする.ちなみに私は博士論文を公開しているが,これを公開するのは勇気がいる.多くの博士にとって,博士論文は「人間としての何か」を失わなければ書き上げられないだろう.心神喪失状態の自分の作文なんて顔から火が出る,普通は国会図書館までいかなければ見られる事がない状態にしておきたい.しかし勝手に登用されるぐらいなら,初出として掲示しておいた方が,Googleが見つけてくれるので,まだ救いようがあると考えている.
 甘い先生,指導教員,主査・副査の先生方は「まあ仕方ないか」と見逃す事もあるだろう.しかしそれは危険な情だと思う.若い学生の演習レポートを採点していると,突然,不釣り合いな「美文」が現れたりする.それをすかさず「引用」ではなく「剽窃」と見抜き,指摘しないと,学生たちは「おれ,素晴らしい」って勘違いして育ってしまう.
 若い学生には自分の中のファンタジーの世界を否定しない人も居る.見聞きしたものを自分の中でファンタジーにしてしまう強い想像力で他者が否定する事が難しい,またそういう頑固な能力も,研究者にとっては必要な能力.しかし他者が追試できない場合は科学にならない,その際の引用は不可欠.例えば「インスパイア」だってそう.芸能やエンタメの世界では本人が知ろうが知るまいが,世間が共感して求めているものをどん欲に取り入れ,ソースは明かされない.科学の世界では論文の査読者が「既にこの人がやっているよ」と指摘する.本人がそう思わなかった,知らなかったと言い張っても無意味な世界なのだ.
 また研究者のもう一つの姿,「査読者」は世間にはあまり知られていないが,論文の新規性と進歩性,有用性をはかる専門家として,その分野のありとあらゆる過去の研究を知っている必要がある.特許なども同じ仕組みがある.

つまり研究者として生きる以上,「ばれなきゃいい」という発想はない.

ないはず,である.そうであってほしい.

……今回の件で研究者を目指す若い才能が歪まない事を祈る.

ガッカリはするかもしれないけど,すべての研究者がそうなのではない,いや,ごく一部であるはず.そう信じて研究者は研究をしているし,剽窃されることも心が痛むが,糞論文は引用の価値すらないので,多くの真っ当な研究者は相手にしない.ファンタジーにファンタジーでつきあってしまっては科学にならない.実験実証主義なのであるから.

一方で,世間には「博士にも小博士から大博士までいる」という認識も必要であると思う.大博士の論文はともかくとして,小博士には”本来の博士の資質”として求められる「研究分野を構築する」という能力が欠けている人もいる.つまりそういう博士は博士のベースとなるエビデンスは「有名学会に論文が数本通った」というだけであり,本質的な研究そのものに対して,ポリシーはない事が多い.右を左に,左を右に変えて,テクニックだけで渡り歩いてきた人,そういう研究.そのような論文には価値がないとはいえないが,そもそも引用されない事が多い.先生からすると,相対的に盗用される側に立った事がないから,盗用する事に対するストリクトさも弱い「バレないようにする,それもテクニックの一つでしょう」という事を平気で言う人も居る.真面目にやっている側からすれば,怒りも抱くが,それはジレンマなのだ.残念だけど.

「Q5:誤画像は絶対に許されない」?

「Q5:誤画像は絶対に許されない」,これは分野によっては意見が分かれるのではないか.少なくとも画像処理なり工学なりの世界に居る側としては「許されない,っていうか普通,ありえないよねそんなこと」というレベルの話である. WordやTeXの使い方を間違えたとしても,共著者が何人も居て「間違えましたテヘペロ」という事象が起きる可能性は,宇宙放射線の軌跡が偶然に文字生成するぐらいにありえない.そんなことがありえるなら,はやぶさ や かぐや だって,アポロの宇宙飛行士だって,北朝鮮が太陽まで行って黒点持って帰ってきた事だって,全部同じレベルで「ありえる」といえる.証拠があるのだ,ないとはいえないだろう.

ちなみに画像を加工して掲載したとしても,手を加えたら人間の目で見えなくたって,調べれば,その加工の形跡ぐらいは見える.他人の画像を回転させたりして使った人も居るようだが,Google画像検索はこのような同一画像を見事に見つけてくることができる.そういう技術を知っていたら,普通はやらないし,そんな幼稚な事はしないはず.

研究の業界によって,画像の扱いは異なるのかもしれないけど,証拠としての性能が高いなら,なおさら大事に扱うべきではないか.CGの研究分野ではティザー画像が同じであれば「既に発表済み論文」として査読者に指摘される.感覚的・経験的な数字であるが,論文の内部で10個の画像を使っていたとして,3個の画像が過去論文(もちろん自分の論文だとしても)に掲載されたものと同じであれば「新規性がない」という指摘をされる事もある.

ただ「こういうルールで見てください」という査読者への指示がない場合もあることも確かだ.

「Q6:共著者も同罪」?

 科学の論文には筆頭著者(ファーストオーサー)がいて,共著者がいる.あまり一般には知られていないかもしれないが,例えば工学の分野では論文の著者に「Aさん,Bさん,Cさん,Dさん」という感じに並んでいる.Aさんがファーストオーサーで,Dさんが指導教員とか大御所,BさんがAさんの次に貢献度の高い人,Cさんあたりは研究グループのボスとか,お金を出してくれた人,という感じが普通の構成.
 まずはAさんが論文を投稿するときに,BさんもCさんもDさんも,精読しているべきである.そもそも「こういう論文書きます」「こういう論文書きましょう」「こういう学会や論文誌に投稿しましょう」という話をB,C,Dさんも理解しているはず.例えば「日本トンデモ学会に投稿しましょう」と言ったら,共著者は反対するチャンスがある.同意できないなら名前を外せばいい.もっと同意できないなら,研究費を止めるとか,いろんな方法があるわけで.
 B,C,Dさんが査読者以下の読み方しかしていないとすれば,それは傲慢な事だと思う.「責任が持てない」という事であれば,そもそも名前を載せてはいけない.また,一度書かれた論文を採択後に「確証が持てない」と言い出したりする事も,滅多にあってはいけない事だと思う.それは研究品質そのものが杜撰であるという事だし,研究者の所属組織も,そうやって「有名論文誌に論文をバンバン通せ」とプレッシャーをかけたあげく,不正や不誠実な行為を行う結果を呼んでいるという認識をするべきではないだろうか.
 今回の論文はB,C,DさんについてはAさんのホームページでは「et al.」(その他)となっている.

Obokata H, et al. Stimulus-triggered fate conversion of somatic cells into pluripotency.
Nature 505.641-647 (2014)
[Pub Med]  [Nature]

Obokata H, et al. Bidirectional developmental potential in reprogrammed cells with acquired pluripotency.
Nature 505.676-680 (2014)
[Pub Med]  [Nature]

 誌面に制約のある論文中ならともかく,あまり迷惑をかけたくない,もしくは特に関わってもらってないけどね,という気持ちの現れだったのかもしれない.憶測の域を出ないけど.
 主著者にせよ,共著者にせよ,取り下げを提案する事は勇気がいる.
 大抵の場合,共著者は研究所のボスであるし,生活そのものを握られている可能性があるから,共著者の誰かに「いいよいいよ,このままバレなきゃいいよ」って言う発言する人が一人でも居ると,よっぽど勇気がない限り,かつ他組織に所属している確固とした基盤のある研究者でない限り,反論する事は難しいだろう.
 それはつまり,多くの場合,ポスドクであり,捨て駒として使い捨てられたのは他でもない主著者である.
 所属組織は,組織ぐるみではないということを示す為に,共著者のひとりひとりの潔白さを洗わなければならないし,そうしないと,過去の論文までさかのぼってそのような体質がなかったかを調べる必要が出てくる.
 さらにいうと,もし研究者がクロだったとして,世間的に生きていけるのかどうなのか,難しいところがある.
 そこに情は挟まれるのだろうか,情は必要なのだろうか.
 

「Q7:魔女は裁かれるべき」?

 自分でこのタイトルを書いていても恐ろしいなと思うのだけど,これは「魔女狩り」なのだと思う.
 我々研究者は,不可能を可能にする「魔法使い」のような存在でもある.
 魔法が成功すれば富も名声も得られるだろう,しかし舞台が大きければ大きいほど,そのトリックを暴こうとする人も多い.「そもそもトリックなんてないよ!これは科学という名の魔法なんだから!」ということが「本当のところ」だったとしても,一度でも魔法のタネがあれば,人々は必ず「トリックがある」と思って見る.
 つまりこの事件は,科学という魔法に対しての世間の「魔女狩り」なのである.
 魔法なんてない,と人々は信じたい.だから魔女は異端であり,磷付にして,焼けという.
 しかしそれは,文明社会の野蛮人そのものではないだろうか.
 科学なんてそもそも誤りだらけなのだ,加えて言えば今回の事件は研究者が誤っているのであり,研究倫理の問題なのであり,科学の誤りと混同してはいけない.
 また,そもそも研究者としての不適格の烙印が押された人間,博士論文の撤回や社会的に顔や名前が晒されてしまった研究者は,どこで生きていけばいいのだろうか?
 社会が科学的手法を理解しているのは,よくわかった.
 科学者は清廉潔白で,白衣を着ていなければならない,とみんなそう思っている,
 そういう考え方も,強いのだろう.
 しかし,本質的な研究というものは「現在の世間が『そうである』と思うか思わないか」には関係がない.
 例えば査読者に「科学の歴史を愚弄している」と指摘されて,涙で枕を濡らした,それは仕方ない.
 愚弄してしまったのだから,泣こうがわめこうが,反論しなければ,潰される.
 ちなみに潰す側も満足が得られるわけではない,当たり前の事を指摘しているだけだから.
 そういう意味では,近年まれに見るマッドサイエンティストたちが引き起こした事件なのであり,人々が個々にこの問題をどう理解するかについて,研究や教育,科学を伝える場に関わる人々は,整理して考え,分析していかなければならない.
 罪を憎んでも,全然違う船に乗っている人を憎んだり裁いたりしていいのだろうか.
 まあ「税金でやっている研究」だといえば,「同じ船」なのかもしれないけど,魔女は魔女なりに静かに静かに世間を恨みながら生きていく余地ぐらいはあってもいいと思う.
 私自身も,性別はともかく,魔女みたいなマイノリティであることは間違いないし,
 情はかけなくても,かけられなくても,生きていく場所を探していくしかないのだから.

一旦のまとめ:コピペ論文はなぜいけないのか?

今回の件は,社会や,研究所という所属組織も絡んでくる研究倫理の問題であるといえよう.

 大学の先生や,研究に関わるものが,自分の事としてとらえなければならないし,従来の「研究倫理」と呼んでいたものをさらに広くとらえるチャンスでもある.
 これによって,ただでさえ,好きな研究を継続する為に,余計な事を考えなければならない研究者が,さらに余計な事を考えなければならないということである.悪い事ではないのだけれど,めんどくさい.
 また「科学的思考」という点についても,文部科学省は見直しをするいいチャンスではないだろうか.科学教育なり理系教育なり,ジェンダー教育なり,作文教育なりといった,「科学的思考」の根底が,「他人の作文を丸写しする事が基礎」とするのであれば,それ以外の方法についても初等教育から見直すべきではないか.
 コピペ論文はなぜいけないのか?
 写経すればいいのか?
 世間的には「当たり前のこと」ではあるし,けれど,なかなか,簡単に回答が出せる話でもないことは,世間全体が把握するべきだと思う.
 小保方さん自身は,日本で生き恥をさらしながら生きていくチャンスもあるかもしれないが,まずは日本で生きる必要はないと思う.自殺とかは絶対してはいけない.「死ねば許される」という思想を強化するということの社会的罪を加える事になる.それぐらいであれば生き恥をさらしながら生きて,世間を見返す活躍をした方がいい.
 もっと建設的な生き方もある.日本という狭い世間を追われ,性に合わないので海外で活躍している研究者は沢山いるし,科学的に誤った作文しかできない人であったとしても,ラボエンジニアとして生きる道だってある.
 コピペ論文は麻薬のようなもの.
 指導する側は,厳しくオリジナリティについて指導するべきである.
 間違っても褒めたりしてはいけない.
 学位さえ与えなければ,研究者として登用される事もなかった.
 研究者としての才能がない学生に対しては,先生は「上へ上へ」とは言ってはならない.
 コピペ論文に情をかけて,ザル審査をしてはならない.
 回り回って,社会も巻き込んで,回復不可能なダメージを受けるのだ.
 今回の件で研究者を目指す若い才能が歪まない事を祈る.

先生たちも,襟を正そう.

シアトルの地にて,一旦の筆を置く.

小保方さん、今後の科学報道の在り方さえも変えた研究者。

※3月10日にあまりにもセンセーショナルすぎる流れになってしまったので文末に加筆しました.


STAP細胞のNatureでの発表がセンセーショナルに世間を駆け巡った。

朝日新聞他、この研究者が女性である事や、少々変わった研究者である事に力点をおきすぎた報道をしており、一方で、こちらのように『その報道はおかしい』と正面切って批判する人もいる。

■「デート」「ファッション好き」革命的研究者の紹介に見る根深い新聞のおっさん思考
http://www.huffingtonpost.jp/hiroyuki-fujishiro/post_6779_b_4692746.html

私は商業媒体としてのWebやBlogでこの手の議論をするつもりは無い、当事者とは『研究者』という括り以外、何の接点も無い。むしろ細々と個人的にこの時代に起きた事、思った事をまとめて自分なりの視点で発信しているに他ならない(私に売文屋としての依頼をしたければ別の話題でお願いします)。

STAP細胞の発見は素晴らしいものである。

Twitter上でもいち早く褒めちぎらせていただいた。

『ノーベル賞間違いなし!』なんて賛辞は安っぽくて当てはめる気にもなれないが、それに値するインパクトの大きい研究である事は間違いない。

まずは本旨に入る前に、この『科学的インパクト』について考えてみると、一般的には2つのインパクトが重要であろう。以下、研究者にとっては「当たり前」のことではあるけれど、科学を伝える科学コミュニケーターとして、個人的なメモ以外に、世間に向けて筆を執る意味はここにあるのでしばし駄文を並べる。

まず一つ目が“研究分野の中でのインパクト”、これは成し遂げた事の大きさ、であるが、世間一般が想像するような「本人がものすごく頑張った」という評価軸でもなく、「ライバル研究者よりも先にやった」といったオリンピックのアスリートに見られるような競争でもない。たしかに競争的な意味合いはあるが、多く「競争しなければならないような科学」は科学の本質とは別の軸にいるように思う。企業の製品・サービス開発競争ならどんなライバルよりも早く市場にものを届けることも重要だけれども、科学の競争の場合には、その背景には大型の予算なり国の税金なりが投入されている例が多い。加速器の研究などは限られた予算の中で精度を上げることが重要であるし、そもそも目的の素粒子を発見できない検知器では見込みも低い。

のんびりしては、いられない。けれども、科学は本当に早さを求めているわけではない。

では、なぜ急ぐのか。

それは予算に限りがあり、
研究者には研究をする時間が限られているからである。

大学院生がなぜ、
毎日のように研究室に来なければならないのか?
それは卒業までの時間が限られているからである。

女性研究者がなぜ急がなければならないのか?
それは一般的には(男性研究者と違って)
結婚やら出産やら物理的に研究できない期間が存在するからである。

こういう書き方をするといきなり「セクハラだ」と言う人もいる。
我々人類のジェンダーとして、ハードウェアなりソフトウェアの仕様として仕方ないのだから、「物理的に研究できない」と表現するしかない。

しかし「社会的にどうにかなる」こともある。

私自身の例ではあるが、フランス時代に2人目の子供が生まれた。

あたりまえのように男性にも育休が与えられる。
育休をとっている間も、研究者であるから、365日24時間研究者である。
乳児育児しながら、在宅で論文書こうと思った。
思ったが……無理だった。両手も使えないし、脳も持っていかれるのだ。

私は「なぜ子供を産む前にこの論文書き終わっておかなかったのだ!」とか、
「なぜ両手が使えなくてもPC操作できるインタフェースを開発しておかなかったのだ!」とか、
過去の自分を恨んでみるが、後の祭りだった。

さらに加えて言えば、破水・緊急出産で”ちょっとした未熟児”で生まれてきた息子は、NICUにも入れてもらえず、早速に高熱を出し、育休ぐらいでは足りない状況。入退院を繰り返しつつも授乳に関しては、生まれながらの飢餓感からか、どうにも腹が減るようで、30分に1度の哺乳を希望する問題児であった。

この赤ん坊、ハードウェアはまあかわいらしく、OSは自分そっくりな少年に育ったので、これもまあよい。

さて話を戻すと「急がずに研究できる」という人物は存在し得るのであろうか。

学生はすでに述べた通り、卒業までの時間がない。
さらには最も研究できるであろうポスドクが、いちばん就職活動のことばかり考えていなければならないポストである。

皮肉なことに、
テニュアトラックで定年までクビになることがない大学教授以外は「研究はいつでも出来るものではない」。
ということになる。

もちろん大学教授だって、優秀な学生が在学中に一定の成果にたどり着きたい、だからこそ学生を急がせるのだろう。
「キミ以外の代わり」になるような学生は存在し得ないから、仕方ないのだ。

さて話を本筋に戻そう。

“研究分野の中でのインパクト”とは何なのか。

簡単にいえば、「他の研究者への影響」であろう。わかりやすい例では「将来にわたって引用され続ける重要な論文」であり、これはImpact Factorのように有名な科学雑誌に掲載されることでカウントされる(今回の「Natureに掲載」というニュースはまさにこの権威視点でニュースになったというわけだ)。また最近否定されつつもわかりやすい指標としてはh-indexなどの論文被引用件数という指標ではかる事ができる。一方で、「その測定器なくしては発見し得ない」など「将来の科学者への貢献」も無視できない。いってしまえば、本当のインパクトのある研究とは、「未来」なのであって、現在のライバル研究者との競争といった過去〜現在の研究者へのインパクトなどというものは無力化されるほどの意味がある必要がある。研究分野そのものを再定義するような研究だ。

もう一つのインパクトは“社会への影響”であろう。

『社会へのインパクト』とは、その効果、幅広さ、そして人類そのものの歴史への貢献とでも表現できるだろうか。科学以外の産業への影響も大きい。例えばノーベル自身はダイナマイトの発明で財を成したのであるが、大量虐殺の兵器を発明した人物として死後の偉業を扱われたくないためにノーベル賞を遺書に書き残した。研究がどんなに専門家にとって素晴らしくても、使い手やその技術の影響が一般市民であれば、社会へのインパクトのほうが重要である。さらに平和や人間の幸福を考えれば、その受賞者を技術のみに制限する理由もないだろう。

しかしこの「社会への影響」とは、間違っても「面白い人物でインパクトがある」ということではない。

世間一般から見た日本のノーベル賞受賞級の科学者は「面白い人物でインパクトがある」と勘違いされている節がある。白川先生や田中先生など、日本の優秀な科学者はセレンディピティの能力が高い。普通の事を普通の事として見落とさない、多様性と一定の競争原理のもとで生き延びた「セレンディピティの国」から来た研究者なのである。しかしこれも日本の研究者としては「当たり前のこと」なのである。

言ってしまえば「デートのときにも研究の事を考えています」なんて、
研究者においては「当たり前の事」でしかない。

こっち方面の研究者にとってみれば「デート!それこそ研究のネタの宝庫」なのであるから。

一般的な研究者としては、むしろ「24時間365日研究者なのにデートしてる時間あるのすごいです」とか、「実験用マウスかっ捌くときにも割烹着なんですよね?」とか、「何で研究室には女性スタッフしかいないんですか?」とか「その壁紙はどこの研究費で…」とか色々突っ込みたいことは多い。それはむしろ、研究者としてのキャリアやマネジメントについての話であり、今回Natureに採択された論文に書かれた科学とは全くと言っていいほど関係がないし、研究者によるそういうBlogエントリーも見かけるので私が特に変わっている視点というわけではないのだろう。マスコミがそう扱いたくなる”何か”があったのかもしれない。

小保方さんは、報道されている情報や経歴を見る限り、どう見ても生物系でもウェットの研究者なので、黄色やピンクの壁紙やスナフキンのカッティングシートにすると研究成果が上がる、試験体の生育が良くなる、集中力が上がる、優秀な人材が集まる、ということも直感的・経験的に発見されているのかもしれない。

もしそうなのであれば、他の研究グループのリーダーや研究予算管理者も考え方をあらためたほうがいいかもしれない。それすらも信念と自腹でやっているというのであれば、本当に涙ぐましい努力と信念なんだなあ、と思う(壁紙は研究費、スナフキンは自費というところだろうか?)。

逆にマネジメントとして、理研の上司が「いいからいいから、壁紙なんて大して値段かわんないでしょ、好きな色にしなよ」って言ってくれているのであれば、マスコミはそこをちゃんと扱うべきだと思う。

もし本当にそうなのだとすれば、小保方さんやその指導者の(A)そういう論文も読みたい。どうだろう?それでこそマスコミや世間の興味が「本人にとってどうでもいい、研究の邪魔」にしかなってないことがわかるのではないか。

Q: 下線部(A)そういう論文とはどのような論文だろうか?具体的な学会名をあげて述べなさい(回答不要)

今回のような、やれリケジョだのデートだの買い物だのペットの亀だのスッポンだの、といった報道の仕方は、マスコミ側に科学の中身の理解が足りない証拠でしかない。ご本人も予想外の反応に普段の天然っぷりがそのまま出てしまっただけなのかもしれない(「普通ですよ」と言い張るのが逆に不安になる)。理研の報道担当者も、ちょっとボタンの掛け違いをしているのではないだろうか。女性研究者をこのように扱う事が、はたして男女共同平等なり男女共同参画社会なりに一致する扱い方なのだろうか?ちなみに男女共同参画社会とは、「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会」のことである。予算や教員募集に書かれているような「女性研究者に優遇します」というシステムの事ではないし、「女性であることを売りにする」ということでもないはずなのである。文化的に、社会的に均等に利益と責任を享受できているのか、どうか、男性研究者も女性研究者も、それを扱う人々も、まじめに考えなおさなければならない。

そもそも、研究者が研究内容以外で有名になる事に何の利益もない。

予算が増える?応援してもらえる?そんな外野は研究の邪魔になる事この上ない。

仮にそうだとしても、プライベートなささやかな幸せ、たとえば結婚とか出産とかだって、研究者が研究以外で、踏みにじられる事はあっても、嬉しいことが起きる可能性はまず、ない

そんな筆を執っていたら、ついにご本人からメッセージが発せられた。以下引用。

http://www.cdb.riken.jp/crp/news2014.1.31_2.html

Jan. 31, 2014
報道関係者の皆様へのお願い
STAP細胞研究はやっとスタートラインに立てたところであり、世界に発表をしたこの瞬間から世界との競争も始まりました。今こそ更なる発展を目指し研究に集中すべき時であると感じております。

しかし、研究発表に関する記者会見以降、研究成果に関係のない報道が一人歩きしてしまい、研究活動に支障が出ている状況です。また、小保方本人やその親族のプライバシーに関わる取材が過熱し、お世話になってきた知人・友人をはじめ、近隣にお住いの方々にまでご迷惑が及び大変心苦しい毎日を送っております。真実でない報道もあり、その対応に翻弄され、研究を遂行することが困難な状況になってしまいました。報道関係の方々におかれましては、どうか今がSTAP細胞研究の今後の発展にとって非常に大事な時期であることをご理解いただけますよう、心よりお願い申し上げます。

STAP細胞研究の発展に向けた研究活動を長い目で見守っていただけますようよろしくお願いいたします。

2014年1月31日
小保方 晴子

立派である。その通りである。過熱報道が飛び火しないうちにさっさと公式ブログに掲載するあたりが素晴らしい。ここを所属機関の広報などに任せても良いことは全くない。

研究者としての幸せというものは、単に「国民の期待に応えること」ではないのかもしれない。残念ながら。

(研究所の広報としては、国の税金に対して成果を見せる、というミッションがあるにしても、今回のような方向性は誰にとっても利益がない)

国の研究所で思う存分、研究が出来ること、これが一番幸せなのだ。

(だからお願いだから、所属機関の広報は、研究者を客寄せパンダや珍獣扱いして中途半端な方法で表に出さないで欲しい、研究の邪魔にしかならない)

Natureに採択されること。

これは自然科学に関わる研究者にとっては、夢であり頂点であり通過点だろう。

家族や大事な人、研究室のスタッフとケーキを買ってお祝いするぐらいの目出たい出来事だ。

というか、多くの研究者がその程度のお祝いだ。下手すると、奥さんにも理解してもらえないのだから。

今回のように、件数も内容も素晴らしい、ノーベル賞も取れる可能性が高い、しかしそのような研究を生み出した天然物の天才科学者をマスコミを集めて大騒ぎするような事態のほうが異常だ。この国の科学リテラシーは高いのか低いのか本当にわからない。科学技術は進んでいるが、人間性は大変野蛮で幼稚な国民性なのではないだろうか。

ちなみに私のようにちょっぴり有名になってテレビや新聞、書店などで顔が出ているだけで、講義だろうがゼミだろうが昼間っから電話は鳴りっぱなしだし、
公共交通機関やコンビニや自治会や運動会の席順並んだり、お神輿担いでいる時にも名前も知らない近所の人に「見ましたよ~」とか言われる。
さらにいうと、電車の中でお年寄りに席を譲ったりした時に「あれっどこかでお見かけしたことがある…」とか言われるとドキッする。
私は機転も利くし演技もできるしTPOもわきまえているほうなので、うまくかわしたりファンサービスしたりもできるけれど、私の家族にそれが出来るかというと不安になる。
しまいには「白井先生はいつも居ない、本当に研究しているのか」とか産学連携や経理担当者などに言われたりするとガッカリする。

もう一言だけ加えておくと、この手の経理担当者は「この学生さんのバイト代なのですが、土曜や日曜日、深夜などは働いていらっしゃったのでしょうか?先生はそれを管理できるのでしょうか?」などと喧嘩腰でご連絡いただいたりする。もちろんご本人が疑念を抱いているというより、監査担当者がそのようなカレンダーや定時で物事を考えているから、我々土日だろうが深夜早朝だろうが、実験や展示で埃まみれ泥まみれ汗まみれになっている学生や教員、研究者のことなど想像もつかないのだろう。バイト代がもらえる学生さんはいいじゃないか、私なんて固定給だから時給に直すと本当に泣けてくるよ。

けんきゅうしゃ、いちねん365にち 24じかん じきゅうじそく

このような句を詠んでじっと手を見てもしかたないが、
時々電卓を叩くと私の時給は1000円を切っている可能性がある。
怖いからそんな計算はしないのだが。奥さんや子供には知られたくない事実である。
労働基準監督署とかにも知られるとマズいのかもしれないので、タイムカードが押せない。

誰かもっと給料の良い職に付けてください、もしくは仕事量を減らしてください。笑えない。

さて、そんな私の小市民的な注目とは別に、科学に関わるものとしては、マスコミや関連研究分野の研究者は今回の記者会見の中で語られた

「あなたは、過去何百年にわたる細胞生物学の歴史を愚弄(ぐろう)しているというふうに、返事をいただきました」という体験にこそ注目をすべきなのだと思う。
なぜこのような大発見、大チャレンジが今の今まで注目を浴びてこなかったのか。
それは先端の科学を扱う専門家集団の中にも保守派がいて、センセーショナルなマイノリティに対して攻撃的になる、ということでもあるのだ。

以下個人的な回想であるが、私も、ゲーム産業から東工大の博士に戻った最初の論文投稿で、とある学会のとある査読者から、山のような重箱の隅コメントの一部に、「この論文の著者はまともな教育を受けていない」と評されたことがあったことを覚えている。


こんな話、「今となってはどうでもいいこと」と扱っても良いかもしれない。

でも、今回の小保方さんの報道を見て、いろいろなことがフラッシュバックしてしまった。

論文を書いたことがある人であればわかるかもしれないが、世の中にはさまざまな「論文」があるが、なかでも、トランザクションとかジャーナルと呼ばれる学会の査読は、見ず知らずの査読者(関連分野・近しい分野の研究者)が学会から依頼され、名前を隠して忙しい合間を縫って、著者の書いた論文を読み、評価をし、改善点や各学会の基準に即した科学的立証性などを指摘していく。著者はそれに対して修正を行い、再査読となる。

この著者と査読者の関係に、まず信頼関係構築ではなく「遠慮なく攻撃的な事を書く学会」がある。

むしろこの行為こそが科学や工学であると主張される学会の文化もある。

いわゆる「学会に復讐してやる!!」という”聖なる復讐心”が芽生える瞬間である。
この「復讐してやる!!」がセレンディピティであったり、世界征服であったり、単に「復讐ではなく復習」につながったりしている。ざっくりと世の中の科学というものの半分ぐらいはこれで成り立っているのかもしれない。

しかし、査読者の瑣末な指摘は理解できても、なぜそんな攻撃的な手法を取らねばならないのかは結局わからないことが多い。

まず、純真な著者視点では、査読者個々のパーソナリティなり、指導方針なり、インターフェースなりが問題であり「学会」という集合体を評価するわけにはならないべきであるが、
「そもそもこんな野蛮な査読者をあてがった学会が憎い」と短絡的に考える著者もいる。

また査読者から著者へのジェラシーのようなものが見え隠れすることもある。
査読者の指摘項目を全て満たしても、全く面白い論文にはならない例もある。なる例もある。
まるで自分の研究室の大学院生のような扱いで条件付きの「条件」に追加実験をしれっと書いてくる例もある。

こんな査読者の知的探求心につきあっている場合じゃない!そう考えることもあるだろう、しかし、

そもそも本質的に査読者は著者を超えることはない。と考えてみてはいかがだろうか。

先人の言うことを聞いて欲しいから査読者は強い口調で向かってくる……それぐらいで考えておけば良いのではないだろうか。

ちなみにその「野蛮な査読者」の査読ぶりのおかげで若い研究者の卵がゆがんで育つ事もある。
例えばこちら:

『ニコニコメガネ』開発者が学生に説く、マイノリティが世界を変えるための戦略【連載:匠たちの視点-白井暁彦】

http://engineer.typemag.jp/article/takumi-shirai

研究者という生き物は「マイノリティ」なのである。そうでなければ研究は成立しない。メジャーでも常識的である必要もない。大衆迎合主義である必要などない。

もちろん信頼感や人間性はあった方がいいし、税金使っている研究ならアウトリーチ活動も大事だろう。

ほとんどの研究者は、世間的な注目のために働いているのではない。

論文の信頼性を高めるたびに日々、実験を行い、尊い犠牲のもとに成り立っている。

だからこそ、論文を書くスピードは早くて確実である必要がある。

のんびりしているうちに、真実は風化してしまうのだ。

常識的でないことをやるからには、常識的でないスピードで、常識を上回っていく必要がある。

STAP細胞、小保方さんをはじめとする研究グループは、今後、大変な戦いの中に身を置くことになるのだろう。
それは「ライバル研究者」などという「仮想の敵」ではない。自らが生み出した『社会そのものへの影響』との戦いが大きい。

まずはiPSやES細胞といった先陣の研究者たち。STAP細胞が否定されてきた100年の歴史を背景に様々なデータを突きつけていくことだろう。それはもしかすると日本国内や過去の恩師や同僚、同じ学会といった距離感で繰り広げられる可能性すらある。世間マスコミはそれを「専門家の学芸会」として扱ってはいけない。本当に大切なことを見落としてきたのは、他でもない専門家なのだから。理研やJST方面の賢い方は、ぜひとも解決方法を探っていただきたい。次に、倫理問題。iPSとES細胞の大きな差は他人の胚を使うかどうか、という点だった。iPSとSTAPの違いはそれまでの「生命の尊厳」に関わる受精や発生から、「ただのリンパ球からクローンが作れるかもしれない」というところまで一気に飛躍する可能性がある。私はこの種の倫理の専門家ではないので、あえて「たぶんいい加減なこと」を言っているのだが、その「倫理の専門家」のメインフィールドすら消滅するインパクトがある。その専門家たちがSTAPにどんなイチャモンをつけてくるのか、興味を超えて戦々恐々である。さらにiPS方面の投資によって大量に生まれたポスト、研究者や研究補助員たち。私も私も、とSTAP小保方グループに集まってくるのだろうか。私だったらそんな研究者にはこのようなガッツの要る研究は任せられないと思う。まずは家族全員引き連れて、海外の研究室に身を置きたくなると思う。スタッフに女性ばかりいるのも、割烹着を着ているのも、そういった「信用ならん連中」が多いからなのかもしれないと邪推する。ちなみに私は「白衣必要ないのに真っ白な白衣を着ている科学者」を全く信用していない。私も白衣を着るが、写真の暗室のために着る。そしてそれは現像液と定着液で真っ黒に汚れる。同様にウェットの研究者は血にまみれる。必要だからそれを着る必要があるのであり、スタイルではなく、決意や覚悟に値する。山のような失敗、屍なのか肉塊なのかわからない血みどろのマウスを見つめながら、スナフキンに向かってため息をつく服は、彼女に取ってそれは白衣ではなく、割烹着なのだろう。

最後に、私がもし、理研のプレスリリースに呼ばれた科学部の記者だったとしたら、やはり、おっさんくさい「女性研究者」という性格をうまくつかった記事にしてしまったかもしれないことを白状しておく。
それは、記者自身が(この研究のインパクトをわかっていたとしても)、人間性を描写したくなってしまったからであり、それぐらい回りくどい話をしないかぎり、この「100年の細胞生物学の愚弄」を表現できなかったのではないかと感じるからである。

小保方さんの研究成果は、今後の科学報道の在り方にすら、影響を与えたのだ。
理研の広報担当は「わかりやすく発信すればそれで良い」という路線以外に、新しい科学報道の方向性を開発すべきなのだろう。
そして国の研究支援機関も、従来の助成金事業ではない方法で、法整備や情報管理など本質的に研究を推進する方法を考えるべきだろう。

大学受験シーズンのまっただ中、バイオ系を受験する女子学生たちに心の中でエールを送りつつ、小保方さんのように世間のおっさんたちのステレオタイプには負けない、頑固でスピードが早く、華のある、そういったマイノリティが世界を変えるような研究者がこれからも沢山出てきてほしいと思う。

多くの理系女子はなぜ、生物を選択するのか。その先にどんな人生があるのか。
そんな素朴な疑問の出口すら、小保方さんの研究は光を投げかけている。
自然科学の研究に没頭する人々が、社会と自分を幸せにする方法は、何であるか。

そして日本の世の中が、このようなマイノリティの価値を認めて、多様性と競争の中に、絶滅危惧種の珍獣の扱い方を早く見つけてほしいと切に願いつつ、久々の5000文字超えのblogエントリーの筆を置く。

【推敲しました】2014/2/2 14:52

【再推敲しました】2014/2/2 17:44

【とある先生からご指摘を受けて大幅改訂】2014/2/4 4:12

【さらにお見苦しいところをエンタテイメント性を向上】 2014/2/6 18:22

追記。

このように、「社会的インパクト」がある作文を書くと、色々な方からいろいろなご指摘を頂く。これ自身がこの問題の一角を表しているのかもしれないし、私は叩かれようが炎上しようが、もっともっと良くなるように努力するしかない。けれど、もう10000字を超えたので、この話については、次の書籍にでも書いた方がいいのかもしれないと思う。出版したいまともな出版社がいらっしゃいましたら、ご連絡ください。

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2014/3/10加筆

「報道の在り方を変えた」という意味ではこのBlogの主旨は変わっていない.

世間は必要以上に小保方さんを攻撃する必要はないと思う.
チートをした研究者,倫理的に道を踏み外した研究者という存在はその時点で職を失い,将来を失い,社会的信頼も失う.つまり十分な戒めをこの時点で受けるのだから.罪を憎んでも人を憎んではいけない.
あまり責めすぎて自殺されても困る.生きて,生き恥をさらす事で,科学に対して再度挑戦する機会を与えるしかない.

研究者としてではない,町の科学者の一角として生きれば良いのである.
塾の先生でも,何でもいい.
研究者としては,難しいだろうな,理研で首が飛ぶ人は一人では済まないだろう.ユニットリーダーに推した人,小保方さんの下にいた研究者,スタッフ,広報の人など.
もちろん,そのようなカテゴリの人物に「誤りがないとは言えない」ということは皆さん想像できる事だろう.
生きる事を許されていないわけではない.

ウソをウソで塗り固めて生きる事ほど辛い事はないだろう.そちらの方が自殺に値する.

先端科学におけるセンセーショナルな話題,つまりNatureに論文が載る,ノーベル賞をもらう,といった話題はまさにそれだけの高みである事を市民,マスコミ,研究者は再認識すべき.

名前を変えて研究者として生き延びるという方法もあるが,それもいいかもしれない.
しかしそれは小保方さんが研究していたイモリの再生そのものではないか.皮肉にもならない.