「任天堂Switch、みんな気付いてない10の未来」を読みやすくするハック

日経テクノロジーオンラインに寄稿したNintendo Switch発売記念カウントダウン記事「任天堂Switch、私はここに期待する」が本日公開されました。

「任天堂Switch、みんな気付いてない10の未来」

白井 暁彦=神奈川工科大学 准教授

全11ページあるうえに、毎ページのようにログイン要求されるので、著者ですら読みづらいと思いました。以下インデックスしておきます。

 

1.Switchは「テレビゲームの歴史にトドメを刺す」
2.グラフィックス性能の向上で見えなくなる「何か」が明らかに
グラフィックス性能を上げたら売れるとは限らない
3.テレビの奪い合い戦争が終焉する
遊びを遊びとして保つためには「やめる自由」が大事
4.「何かゲームがしたい人」は結局なにも買わない
ゲームを買うのはソーシャルな理由
5.でもスプラファンは「スプラ2」さえ出れば満足
任天堂ハードで「○○専用機」は珍しくない
6.玩具の歴史であってゲーム機の歴史ではない
7.「1-2 Switch」こそが最注目タイトル
8.「VRエンタメ」の未来に「触覚VRエンタメ」あり
一番手が抜けない場所がユーザー任せ
9.「Joy-Con」がひらく日本がアップルを超える未来
“Switch”という名前の本当の意味
10.やはりSwitchは「テレビゲームの歴史にトドメを刺す」

最初は「10のヒミツ」として書き出したら10どころか20ぐらいあったので、だいぶ圧縮しております。全部で11,000字ぐらいあります。

基本はエンタテイメントシステム、プラットフォーム設計の歴史と変遷の話なのですが、任天堂の中の人さま、一部憶測で書いてゴメンナサイ!
今度機会があったら試遊会に呼んでください、もっとちゃんと書きますから!

でも「テレビゲームの歴史にトドメを刺す」は本気と思いました。

ご感想は日経テクノロジーオンラインのほうにお寄せ下さいませ。

2017年の抱負 – 気力とは何か

今年もよろしくお願いいたします。

おめでとうとは言えない正月
先年2月の入試業務の真っ最中に祖母を失い、また年末に妻の祖母も他界し、悲しみの中で明けた2017年です。

宗教的儀礼はともかくとして心の持ちようでは元気にいられますし、紅白歌合戦だって楽しめるし、映画だって観に行こうと思えば観に行けますが、長年続く宗教的儀礼とはよくできていて、人の死といったケガレはミソギを行い心静かに過ごさないと逆に良くないことがたくさん起きるようです。

全くもって非科学的に聞こえますが、ケガレとは「汚れ/穢れ」とも書くのですが、語源は「気枯れ」と書くらしく、気力の枯れが魔を呼ぶようです。では気力とはなんなのか?気力は目には見えませんが、全くもって非科学的な存在なのかと思えば、最近は実はそうではないと考えるようになってきました。

気力の正体とは何か?
気力とは「感じる力&やり遂げる精神力」と考えます。英語で言えば sensitivity & spirits です。英語では「心」にあたる言葉はたくさんあってmind, heart, spritsなどありますが、物事をやり遂げたり、本人の信条とする行動を貫く心はspiritと呼びます。「感じる力」とは五感をはじめとする感覚の事ですが、「五感」という呼び方は古くアリストテレスの時代における分類です。視覚一つとっても、中央視や周辺視、フォーカス、認知機構まで考えればアテンションなども「見えているか?」という要素に入ります。意識下の判断はそれ以降です。聴覚、触覚、味覚、嗅覚、身体の平衡感覚や筋骨格系や反射含めて「感覚」です。

気力が鈍ると何が起きるか?
以上のように「気力は見えません」が、一方では人間の内側で重要な役割を持っている事がわかります。神道では「穢れは厄災を呼ぶ」と言いますが本当でしょうか。気力が枯れると何が起きるか?例えば、交通事故などは、不注意や焦り、普段やらないことから起きます。対人関係のトラブルなども相手の表情やストレスを見ずに行動する事で呼び込みやすくなります。神道では女性に関わる「穢れ」が多く書かれており、月経や出産すら「穢れ」として扱われています。女性を汚らわしい存在として見るような一面もあるのですが、別の視点では、女性は産後や月経周期で精神的にも肉体的にも不安定になりますし、(地位の高い男性のパートナーであればなおのこと)他の女性の誘いを受けるような「好事魔多し」を呼び込む事になることから、お祓いやお清め、滝行のような禊(ミソギ)を行うのでは無いでしょうか。元々は死んだイザナミを追ったイザナギが黄泉の国から帰ってきた時に行った行為であり、現在は神社の境内に入る時に冷たい水で手を洗い口をゆすぎます。冷たい水の感覚が、何か大事な事を感じるための準備信号を与えてくれます。

抱負とは何なのか?

さて2017年の抱負です
いつもなら、張り切って新しい年に「抱負」を述べたりするのでしょう。しかし家族が沈んでいる時に、一人で元気にお祝いをしたり、未来や希望を述べているのもなんだか場違いなのです。それだけ家族が沈んでいるということで、いくら精神的に強固でも(鈍感でも)、それぐらいの空気は読まねばなりません。

そして抱負とは何なのでしょうか。
「抱負」は「希望」では無いようです。
今年一年、抱きかかえて背負うという事ですから、単なる希望や妄想と言うよりは、実現に向かわせるための実効力を持つマニフェストのようなものでしょうか。
つまり

• 腕を治す

• 大きな仕事をする

• 不測の事態に耐える

といったレベルではなく、以下のようなマニフェストでしょうか。

腕を治す
2週に1度は整形外科に通い、リハビリに専念し、3月末までに可動範囲を増やし、上期中に完治を目指す。

大きな仕事をする
研究関係では(詳細は書けませんが)VRの歴史に残るような大きな仕事をする。実験もやる、論文も通すし、商業製作も大きなプロジェクトを動かす。

不測の事態に耐える
2017年は素数。身体の不調、事故や災害、学生のトラブルといった割り切れない「不測の事態」は必ず起きると考える。その時に誰のせいでもなく、予測の範囲として行動する。何も起きなければそれでよく、備えをしておく。

特に大事なには3つ目で、少なくとも、現状のコンディション、体制、家族の状態で「不測の事態」が起きたら、私はバラバラになってしまうでしょうね。そういえば過去のVR業界の失敗はそんな「雑で高価すぎる仕事」にあったように思います。2016年末から2017年初にかけても、そういう「雑な事態」は周りでチラホラ見えていました。

雑な仕事は「気枯れ」によるもので、感覚や品質に鈍りがあるという事で、冷たい水で感覚を研ぎ澄ますような反省が必要です。物事や精神の本質を再度見直すいい時期でもあると考えます。反省しない輩は相手にする必要はありません。

そんな感じで、ちょいお堅い感じですが、真面目に楽しく生きていますので、今年もよろしくお願いいたします。

白井暁彦

『Pokémon GO』に学ぶ商標問題と、VRを面白くするために「もっと大事なこと」。

★文中、ポケモンGO、PokemonGoなど表記が揺らいでいまが、日本語表記については微妙な状況にあるようですので、本稿ではNiantic公式に従い可能なかぎり『Pokémon GO』と表記します。

ことの発端はこれ。本稿公開時で3,000RT(個人RTレコード更新)。

★ちなみに、最終的な拒絶査定でもないですし、商標ゴロに訴えられているわけでもないですし、今後日本で発売できないわけでもないですよ。RTする前に、このエントリーを中盤まで読んでくださいね。

手っ取り早く、くだんの発言の知財処理上の詳細を理解したい人はこちらの方のエントリーを読んでいただくのが良いと思います。

 

世間は Pokémon GO で大騒ぎです

 

この原稿はとあるWebメディアに向けて執筆していた原稿の成れの果てなのですが、技術だけでなく、社会的インパクトが大きすぎる上に、書いているそばから新しい話が出てきてしまい、もう個人Blogぐらいか書きようがない話になってしまいました。

まず『Pokémon GO』は大ヒットした位置情報ゲーム『Ingress』を作った Googleから独立したAlphabetグループ企業 Niantic Labs社 が開発した最新の位置情報ゲームです。

 

<動画:Ingress – It’s time to Move. (2012/11/15)>

 

IngressがSF風の雰囲気で演出されているのに対し、『Pokémon GO』はポケモンの世界感を大事に、その育ったポケモン世代にアピールしています。

<動画:UK: Pokémon GO – Get Up and Go!>

 

★ゲームの中身についての解説は、まだ日本でリリースしていませんのでまたの機会にいたします!

近日中に日本でもプレイできるようになるそうですので、ゲームのリリースについての情報はこまめにNiantic公式Blogと、公式Twitter、ストアを確認することをお勧めします(Android, iPhone)。

 

なお、本稿では分かりやすさのために、前作である『Ingress』の用語に訳せるところは可能な限りIngress用語で解説しています。Pokémon GO のゲームの詳細について予習したい人は公式のこちらの情報用語集を読むと良いと思います。

株価への影響

▼任天堂株が1年4カ月ぶりの日中上昇率、ポケモンが米首位(Bloomberg・2016年7月8日)

https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2016-07-08/O9Z08F6KLVS201

この記事の時点で「前日比11%高の1万6560円まで買われた」、とありますが、この記事の執筆時点(7/16)の10日間でも、オーストラリアやUKはじめとするヨーロッパの各国でリリース直後から話題となり連騰し、初週7月15日の終値で 2万7780円まで上がっています。長く低迷していた頃に任天堂株を最低購入価格である150万円で買った人は、 Pokémon GO リリース後に倍近い額になっている計算です。なお、任天堂は Niantic Labs社に3000万ドル(当時 約36億円)の出資をしていますが。直接の開発元であるNiantic Labs社や株式会社ポケモンは上場公開しておらず直接投資できない点と、ゲームと連携して遊ぶIoTデバイス「Pokémon GO PLUS」を近日中に発売する予定の任天堂株が買われているという情報です。

経済インパクト大、そして社会問題にも…

さて問題は株価だけではありません。その異常なまでのプレイヤーの熱狂ぶりが報道されています。

運転中の Pokémon GO 禁止、警察署やミュージアムでの Pokémon GO での進入禁止などはニュースが多すぎて把握できませんが、特徴的なニュースを引用しておきます。

 

▼アメリカ人、ついにメートル法を学習 「ポケモンGO」のキロメートル表記が分からず検索急上昇BIGLOBEニュース・2016/7/12)
http://www.excite.co.jp/News/it_g/20160712/Biglobe_7672285195.html

▼「ポケモンGO」公開4日で売上14億円突破、米調査会社データ(フォーブス・2016/07/12)
http://forbesjapan.com/articles/detail/12822

株価上昇だけでなく売り上げも大変な規模です。「公開4日で14億円」がどれぐらいすごいかというと、Niantic社の前作 Ingressでは「立ち上げから現在までの総売上が110万ドル(約1億1300万円)」(同記事, SuperData社の元記事)ですので、そのインパクトの大きさが売り上げ規模から想像できます。

一方で、同じSuperDataの調査によると、2016年にVR業界全体での売上は29億ドル(約3190億円)という予測。2020年には10倍以上の403億ドルに伸びるとして予測していますので、単純な掛け算・割り算では最初のインパクトが続くなら、VR業界全体の年間売り上げの1/3程度の規模となります。

経済だけではなく社会問題にもなりつつあります。

▼Teen playing new Pokémon game on phone discovers body in Wind River
(19歳が新しい携帯ポケモンゲームをプレイ中に水死体を発見, county10, 2016/7/8)
http://county10.com/201021174044426240

朝早起きしてポケモン探していたら、白骨死体とかじゃなくてけっこうナマ温かい死体を発見してしまったようです。ただ、このようなプレイヤーが増えることで犯罪抑止力の目にはなるかと思います。

▼Pokemon GO が、米国の夕方の公園の風景を一変させていた(Yahooニュース・松村太郎・2016/7/14)
http://bylines.news.yahoo.co.jp/taromatsumura/20160714-00059978/

犯罪が多く、お世辞にも治安が良いとは言えない日没のアメリカの公園の景色が、Pokémon GO用語の「トレーナー/Trainers」、Ingressスラングでいう所の「不審者」がたくさんいて、大人も子供も皆何かに夢中になっているような写真が撮影されています。それを裏付けるかのようにこんなニュースも。

▼「ポケモンGO」に便乗? ヒラリー陣営、ストップで集会(日本経済新聞・2016/7/15)
http://www.nikkei.com/article/DGXLASGN15H1I_V10C16A7000000/

日本では選挙権が18歳まで引き下げられましたが、アメリカではそれを笑うかのように Pokémon GO を選挙運動に取り入れているようです。日経新聞で「ストップ」と言えば株価の「ストップ高」なのかと思いきや「ポケストップ」、Ingressにおける「ポータル」、つまりゲーム上の「いかねばならない重要地点」で集会を開いているそうです。日経新聞の記事をそのまま引用しますが、

“ヒラリー陣営は集会にあわせ、ポケストップにモンスターを一定時間おびき寄せられるアイテムを使用する計画だ。陣営のサイトでは「無料でポケモンを捕まえ、戦わせよう。選挙人登録を行い、ヒラリー・クリントンについてもっとよく知ろう。子どもたち歓迎」として、家族連れの参加を呼びかけている”

候補陣営→エサ撒く→ポケモンやってくる→Pokémon GO ユーザ寄ってくる→話聞いてくれるかも?……それってつまり「ポケモンの力を借りて選挙に勝つ」という新モデルで、もはや「選挙にポケモンを召喚しているような状態」ではないでしょうか。日本の公職選挙法もこれぐらい斬新な方法を想定して整備してほしいものですね。

 

そして悲しい事件も起きています。

 

▼「ポケモンGO」に夢中の少女、車に跳ねられる(BIGLOBEニュース・2016/7/15)

http://www.excite.co.jp/News/it_g/20160715/Biglobe_3370741731.html

命に別状はなかったのですが、「ラッシュアワーで混雑している交通量の多い4車線の道路を横断」して事故に遭っています。事故後はアプリをアンインストールし他のプレイヤーに対して、「周りをよく見て気を付けて」と語っているそうですが、そのメッセージはアプリ起動時にも表示されています。

特にジム戦が白熱して盛り上がっているようで、動画を探すとポケモンを追いかけて人々が衝突しているような危なげな動画もあります。

以上のようなニュースは憶測やデマのような未確認情報まで含めるとたくさんあり、まさにとんでもない熱狂ぶりです。
Ingress or Pokemon GO

日本ではいつリリースされるのか?

日本ではいつ、Pokemon Go がプレイできるようになるのでしょうか?

待ちきれない人々からは「某巨大企業提携説」、「流行に弱い日本人の気質」、「サーバーの増強」など様々な憶測が飛んできます。

前作 Ingress を長くプレイするエージェント(Ingress用語;プレイヤーのこと)は、より多くの視点と経験を持っています。

まず、Pokémon GO が日本市場投入される時期として、最も早いタイミングとして見られていたのが、2016/7/16以降です。前作 Ingress が、世界中のプレイヤーを巻き込んだ大会を実施しており、その“最終決戦”Aegis Novaの最終ステージが、東京で7月16日に開催される予定でした(公式イベントHP)。Ingressの世界の上でも Aegis Novaで一旦のストーリー展開上の終結を見る、という設計でした。

▼Pokémon GO、Ingressのナイアンティック川島氏に聞く 1万5000人規模のAEGIS-NOVA TOKYO開催直前、Pokémon GOの日本での提供は(ImpressケータイWatch・2016/7/13)

http://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/interview/1010228.html

“川島氏:それらの国の優先順位が高かったというわけではありません。法律的な問題や安全性への配慮、時間が必要なものなどいろいろな要素が影響しており、慎重に選んだものです。重要性で決めたわけではありません。日本でのローンチが遅れているのは、サーバー自体が予想を上回るアクセスで、きちんとしないといけないというところです。発表だけして遊べないと言うのでは困ります。エンジニアは寝る間を惜しんで増強に努めています。近いうちに、日本でも提供いたします”

筆者も実際に取材を兼ねて参加してきましたが、CEOジョン・ハンケによるスピーチではやはり Pokémon GO のリリースに関する新情報はなく、そのタイトル名もあえて伏せてスピーチが行われるほどでした。

<動画:Aegis Nova Tokyo終了後のCEOジョン・ハンケによるスピーチ>

筆者の憶測の範疇を出ませんが、川島氏さんの「法律的な問題」、John Hanke氏の「名前を言えない」という点から日本は商標登録に問題があるのかもしれません。調査してみると「ポケモンゴー」と呼べる商標は任天堂から「商願2015-086693」として出願されており、任天堂株式会社、株式会社クリーチャーズ、株式会社ゲームフリークが権利者として明記されていますが、現状は「存続-出願-審査中」になっています。「Pokémon GO PLUS」(商願2015-087286)も「存続-出願-審査中」ですが、同時期に提出された文字だけの「Pokemon GO PLUS」は2016年5月27日に登録となっています(登録5852656)。どうやら類似商標などを懸念して審査官から拒絶のお知らせが出ているようで、補正手続きも出されていますが、7/16時点で最終的な判断まではたどり着いていないようです。

これはそもそも任天堂の商標出願ですし、一方で商標登録までたどり着いていなくてもサービス開始しているポケモン関連アプリもありますので、なかなか難しい問題ですが、これが日本でリリースできない理由のひとつになっているのかもしれませんね。インタビュー記事やイベントでの発言にも納得がいきますし、実際の係争が起きているわけでないようですが、商標関連は片っ端から出願してくる会社もありますので騒いでもいいことはありません。あくまで公式には「サーバーの増強」として、憶測は憶測として応援しながら見守るしかありませんね。

Q6-PokemonIP<原稿執筆時点での「ポケモン」関連商標検索結果(一部)、(日付左)が出願日(日付右)が登録日>

 

“ポケモン”は商標問題のポケットモンスター

結構身近なところでこんな話も聞こえてきますが、

▼クライアントや上司に「ポケモンGOみたいなゲーム作って」って言われた時に投げつけるまとめhttp://togetter.com/li/999088

そもそも「ポケモン」や「ポケットモンスター」の商標って複雑なんですよね。

ポケモンだから複雑だというか、長年売れたタイトル、かつ自社発ではないIP(知的財産権)だとなおさらです。

▼ポケモンを例に出して世界一簡単に商標登録とは何かを説明するぞぉ(2016-04-18)

Pokémon GOはARではない…?

一方で、海の向こうのポケモントレーナーから「ARゲームじゃない、IPの力で成功した位置情報ゲームだ」なんて意見も出てきます。

冒頭に引用した米調査会社SuperData社も「Pokémon GO ARではない」と明言しているのも興味深いです。

我々はIP取得を忘れていないか?

たしかにIngressや Pokémon GO を支えるテクノロジーとして重要な技術は、「スマホでのAR」というよりも「大規模・多人数・同時の位置情報ゲーム」という点です。しかし「ポケモン」という長年任天堂他が培ってきたIPも上記の通り「なんとか守ってきたIP」という説明の方が正しいと思います。

任天堂のポケモン関連の商標をみると、本当にギリギリまでがんばって、登録の見通しが立った瞬間に出願をしていることが感じられます。日本の特許や商標は公開制ですので、新しい出願があったときには皆さんに異議申し立てができるように公告されます。興味がある人は特許庁の検索(無料)やTwitterの商標速報bot(@trademark_bot)などを追いかけてみると良いでしょう。

でも、任天堂がギリギリまで商標出願しない理由のひとつは、他でもないゲームファンの人々が商標出願情報から新ポケモン名を書き立てたり、商標ゴロに連想できるような類似特許を取られないため、でもありますよね。

みなさん新しいVR作品を取得する時に、IP取得していますか?

IPといってもよくいうキャラクターのことではありません、もちろんインターネットプロトコルのアドレスでもありません。Intellectual property、具体的には特許出願と商標出願をしていますか?

私は企業との共同研究や商業案件の場合は必ず特許か商標を出願しています。

単独個人のお金で出願することもありますし、共同研究先と共同出願することもあります。大学から業務特許で出願して大学の保有になっているものも多いです。

出願したものが全て権利化されるわけではありませんし、むしろ特許の場合は物言いがついて頭を悩まされることの方が多いです。

しかし他者に真似された時も悔しいですし、訴えられるのも困ります。

でも、最も辛いのは「将来自分が特許や商標を出願した時に、自分の作品のおかげでIPが成立しない」という時ではないでしょうか(まあ味わってみないとわからないでしょうけどね…)。

この先、VRやARで一山当てよう、とおもっているあなた。

作り手なら、まずはIPについて学びましょう。Pokemon GOの問題は、学ぶよい機会ではないでしょうか。

 

IngressとPokemon GOの本質を見抜け

ところで、現在のゲーム業界はインベーダーのコピー基盤の販売で拡大したという歴史を覚えている人はおりますでしょうか?

PlayStationのDUALSHOCK2に実装されていたバイブレーターの制御技術が、PlayStation2を一時発売停止に追い込み、特許問題になったことを覚えていますか?
(なお、この技術は白井の修士時代の研究に大変関係があるものです…)

今、IngressとPokemon Goの人気の本質にあるものはなんでしょうか?

ポケモン人気?位置情報ゲーム?それらの本質を見抜いておかなければ(一時は劣化コピーで儲かる瞬間もありますが)、ものづくりの原動力が見抜けていないということです。継続的にはその後の訴訟やサポートで大変な痛い目を喰らうかもしれません。

私はこう考えます。

多くの社会的影響も含めて、設計上、強く人々を惹きつけているのはGPSを用いたスマートフォンゲームであること、特にその中でも「マルチプレイヤーARであること」が最も重要ではないでしょうか。

Google MapsやGoogleが支えるサーバー技術は確かに強大なのですが、AWSやPhoton、そしてGoogleのサーバーサービスなど、本質的にはお金を出せば買えるものなのです。そもそもNiantic Labs自体、(2014年のGDCにて)Ingress APIをUnityプラットフォームに提供する準備がされており、Pokemon GO自体もこの環境において開発されているようです。

スマホARは今後、Pokemon GOを軸に大きく転換期を迎えるものと感じています。

VRエンタテイメントでは今後、実体体験型VRとマルチプレイヤー型のモバイルARにすみわけが進んでいくのではないでしょうか、その中で、既存IPとの連携、VRにおけるStory(ナラティブ)など考えることは多いのですが、それもやはり、人々が飽きればそれで終わってしまう可能性がある演出要素でしかないのではないでしょうか。驚異的な存在であることは間違いないです。

VR/ARエンタテイメントでみんなが忘れていること

このように強大な存在ではあるのですが、実は、Nianticの人々はPokemon GOを作ったのは、他でもない、Ingressのエージェントたちだ、と明言しています。これはリップサービスでしょうか?たしかにお世辞なのかもしれませんが、この22歳の青年のスピーチを聞いて何を感じますか?

Pokemon Goが出たとしても、インストールしたとしても、Ingressが生んだものは強大です。

技術やIPは大事なのですが、コミュニティを醸成していく技術は超大事です。

そして、私は「Nianticの杜撰さ」は褒められることではないけれど、その先進性と「未完成さ」は評価できると思います。

日本でのリリースはいつになるかはわかりませんが、世界各国で Pokemon GO が始まってから起きたことは、Ingressと人々を研究する側としては「想定されていること」でした。

 

相模Ingress部で学んだこと

ちょっとした余談になってしまいますが、筆者は相模原市立博物館と協働で、位置情報ゲームをつかった相模原市全体のフィールドミュージアム化についての共同研究を行っており、2013年からARやGISを使ったゲームによる人々の理解や行動がどのように変化するかについて調査しています。

その中でも、ゲームをゲームの中だけで終わらせるのではなく、積極的に経済活動につなげたり、プレイヤーへの啓蒙活動や、文化・知的探求活動につなげていくための手法や知見、データをまとめています。

▼相模Ingress部

http://ingress.sagamiharacitymuseum.jp

▼フィールドミュージアム構築における代替現実ゲーム「Ingress」の活用 (SliderShare)

▼代替現実ゲーム「Ingress」で魅力的なまちづくり ―プレーヤーも、観光客も、地域住民も喜ぶためには(観光政策フォーラム・2015/4/1)

・Part1 ゲームが観光客を連れてくる!?
  https://www.kankou-seisaku.jp/ksk/jsp/kankous/st?n=87&d=1

・Part2 ゲームを使ってフィールドミュージアムをつくる―市立博物館との市民協働プロジェクト―
 https://www.kankou-seisaku.jp/ksk/jsp/kankous/cr?n=87&d=19

・Part3 Ingressで見える、魅力的なまちとは
 https://www.kankou-seisaku.jp/ksk/jsp/kankous/cr?n=87&d=20

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<筆者主催のイベントでの相模原市渕野辺駅前の商店街の様子・Ingressエージェントと地元商店街の融合が見える>

 

今となっては、この規模のIngressイベントは珍しくなくなってしまいましたが、Ingress公式のXF(cross faction, 両陣営合同)イベントが発表される前から、JAXAや はやぶさ 、博物館と絡ませた初詣やら、豆まきやらを企画し、Ingressをハックして楽しんでいたのです。

クラシックなITやサービスの考え方では「ペルソナ」つまりユーザはたいてい一人として設計されています。しかしミュージアムやMMMMORPGのプレイヤーはひとりではないのです。

 

<上記SlideShareから:ミュージアム来館者は単体ではないため、複合ペルソナを考える必要がある>

Ingressガチ勢問題

一方、位置情報ゲームをあまりプレイしない人々からは、特に「Ingressは”ガチ勢”が多い」と言われ敬遠されます。

確かに、装備や行動、発言やリーダーシップにおいては「普通じゃないな」とか「XMでアタマやられているな」(訳注:XM=エキゾチックマター, Ingress世界でそこらじゅうに拡散している謎のエネルギー)という人もたくさんいらっしゃいます。

しかし、Ingressのプレイヤー全てがガチ勢というわけではなく、ゆるふわ勢も、コスプレしながら楽しむ人も、妊婦さんもいます。

Ingressというゲームの設計や戦略上、そのような行動を取る人、またうつ病や肥満、運動不足の解消を目的としてゲームを開始した人も多く、ちょっと変わった人も多いです。

ネットではガチ勢の人たちばかりが目立ちますし、ハングアウト(訳注:Google Hangouts、Ingressのエージェントが情報交流に使っていることが多い)ではものすごく高圧的な人物が、会ってみると以外と温和な人だったりして、なかなか見極めるのは難しいのですけれども。

一方で、ガチ勢の中でもこのゲームを愛する人々、ボランティア精神がある人はただゲームをプレイするのではありません。運営と連携し、陣営や自分が所有するポータルや実績を一旦忘れ、寄り添ってコミュニティ醸成活動に参加します。そうしないと、位置情報ゲームは固着しはじめると「これは俺の所有物」と考える人も多くなり、それによる力の誇示や争いが生まれ、初心者が入りづらくなり、活動範囲も狭くなり、カルト・セクト化してしまいます。これはイングレスのようなMMMMO(Map-based Mobile MMORPG,マップベースモバイ大規模多人数オンラインゲーム)だけではなく、一般のMMOでも同じ傾向があります。

クリエイティビティを発揮できるゲーム

一般のMMOと同じ要素がある一方で、Ingressの「遊び」のもう一つの重要な要素、それは「自由」です。

カイヨワをベースにした[遊びの成立]の現代語訳。遊びは「遊ぶために遊ぶ自己目的性の行為」であり、「隔離された活動」,「非生産的活動」,「虚構の活動」, 「規則のある活動」,「未確定の活動」そして最も重要なのは「自由な活動」 であること。 自由はいつでもやめられること。日常と非連続、現実世界に富を生まない、現実とは区別がつく (写実でもよい) 、遊びの世界を支配するルールがある、先が読めない、選択の自由がある、「遊び」の成立。これら全ての特徴がそろっているときに純粋な「遊び」が成立し、「遊戯状態」にあると定義できる。

上図はカイヨワをベースにした[遊びの成立]の現代語訳。遊びは「遊ぶために遊ぶ自己目的性の行為」であり、「隔離された活動」,「非生産的活動」,「虚構の活動」, 「規則のある活動」,「未確定の活動」そして最も重要なのは「自由な活動」 であること。

自由はいつでもやめられること。日常と非連続、現実世界に富を生まない、現実とは区別がつく (写実でもよい) 、遊びの世界を支配するルールがある、先が読めない、選択の自由がある、「遊び」の成立。これら全ての特徴がそろっているときに純粋な「遊び」が成立し、「遊戯状態」にあると定義できる。

「行動の自由」や「やめる自由」もさることながら、現代ではプレイスタイルや表現、つまりファッション性や同人制作など「個々のユーザのクリエイティビティを発揮できる自由」も重要な要素です。

<写真上:様々なファッションで参加する>

<写真下:同人制作の数々>

動的ペルソナ:「白井博士の未来のゲームデザイン」より
動的ペルソナ:「白井博士の未来のゲームデザイン」より

これは「白井博士の未来のゲームデザイン」において予言していた「動的ペルソナ」が確実に進んでいるということで、Pokemon GO登場以降、2016年以降はこの図の動的ペルソナに「Pokemon GOをプレイする女子」を想定してエンタテイメントシステムを設計していかねばならないということです。

 

みんな新しい体験が欲しい

どうしてあたらしいゲームを始めるのか

筆者の調査によると、日本人が初めてゲームを開始する年齢が「4歳」で、その理由は「プレイしたいゲームがあったから」ではなく「友人や周囲の話題についていきたい」というモチベーションが切っ掛けになっています(幼稚園におけるヒアリング、大学生に対するアンケート中心の調査による。本当は大規模調査したいので誰か一緒にやりましょう)。つまり「ゲームを開始する理由はそもそもソーシャル」ということです。

また新しいゲームを開始する時、特にプレイしたことがない「新しいジャンルのゲームを開始すること」は人々によって難しく、ちょっとした挑戦になります。自分の意思ではダウンロードしないアプリをダウンロードする時は、仲の良い、信頼できる他人から誘われる時が最も有効に働きます。新しいSNSツールなどがまさにその典型で、自分が信頼しているリアル友達に誘われない限り、もしくは強い強制力がある、センスいい、出し抜かれたくない、話題についていく必要がある、といった理由がない限りは新しい価値観のゲームをプレイしたりアプリをインストールする事は、なかなか期待できないのではないでしょうか。

Pokemon GOを始める理由

その中で、Pokemon GO が持つ魅力、「Pokemon GOを開始する理由」だけでも列挙してみるとこれだけの要素があります。

・ポケモン世代

・既存スマホゲームに飽きた

・Ingressエージェント

・運動不足解消したい

・なんだか米国で話題なので

・(非ポケモン世代)子供がインストールしろというので

・(非ゲームプレイヤー)株価への影響がすごいので知っておきたい

多くのPokemon GOプレイヤーや、未リリースの日本市場が気づいていない点も指摘しておきます。

ほとんどのスマホユーザーが「友達が欲しい」と思ってゲームをダウンロードしたりはしません。

しかし Ingressは大会に出ると、ほぼ高確率で新しい友達が増えます。

 

Ingressは愛されているのです。
(時には愛憎余ってたいへんなことになりますが)

そんなこともあって、Niantic LabsはIngressエージェントを中心に、Pokemon GO の日本でのベータテストを事前に行っています。体験したIngressガチ勢は「Pokemon GO は Pokemon GO、IngressはIngressで面白い」と言っています。やっぱりIngressは愛されているのです。一目惚れがそのまま続いている感じです。

専用ハードウェアこそが頑張る場所

上記の通り、”ガチ勢”は簡単に乗り換えをするのではなく、今後、IngressとPokemon GOなどそれぞれの位置情報ゲームにあわせてスマホ2台持ちといった方法に流れていくのではないかと予測します。その中で、Pokemon GO プレイヤー専用のIoTガジェットである『Pokemon GO Plus』や任天堂が売り出すかもしれない関連商品や専用ハードウェアのような展開は、さらに新しい文化や商機を生み出すと見ています。

日本製品が世界で成功するなんて話は、本当に最近聞かなくなってきているなか、
任天堂は頑張って商品展開を進めてほしい!と思います。

 

もちろんNiantic Labsも動いています。他社の参入チャンスも大いにあると思います。

▼ポケモンGO、ARデバイスへの対応等、今後の新機能に期待(MoguraVR・2016/7/14)

http://www.moguravr.com/pokemon-go-ar-vr/

ポケモンGOを近々リリースされる可能がある新型Google Glassや、Microsoft HoloLensなどのウェアラブルARデバイスで体験可能にすることも検討中だとハンケ氏は語っています。

(関連記事)ポケモンGOがVRに対応の可能性 ライセンスが示唆か

みなさん知らない人も多いので、Niantic Labs社のCEOである、John HankeがGoogle Mapsを作るさらにはるか前に、何を作っていたか、紹介しておきます。

Windows95の時代にMMORPGを作っていた人物が「自分の子供を外に連れ出すゲーム」を作ったのがIngressです。時代を先取りしすぎです、しかも「Meridian 59」は、権利問題を解決して、いまでもプレイ可能な状態でネットに存在しています。

John Hankeの挑戦はまだまだ続くのではないでしょうか。

そして、この先進性を一緒に楽しんで、未来に進めていかければなりません。

 

IngressやPokemon GOはコンテンツなのか?

筆者が今回、Aegis Nova Tokyoで見たかったのは、Ingressの人気や人々の行動・理解がどのように変化していくのか?といった点です。課金アイテムの売れ行きとかアフターパーティーの人の集まり方とか。そもそもIngressは終了するのか、Pokemon GOは始まるのか。

そういった「IngressやPokemon GOはコンテンツなのか?」といった疑問に、Aegis Nova Tokyo終了後の私は明確にNo、だと言えます。

Ingressは世界システムです。エンタテイメントシステムです。
Pokemon GOも次なる可能性やポテンシャルを秘めています。

それは一過性の人気ではなく、人類の歴史に大きな第一歩を与えるアクションであると感じます。

 

どう控えめに見積もっても、
長年続いたJRの「ポケモンスタンプラリー」は来年夏には終了していると思います。残念ですが。

夢の世界がどこにあるのか?

ARで想像を補うのか、VRに自分を浸すのか。

ARは宇宙のリアリティです。VRは地球のリアリティです。

どっちがいいか?そんな宗教戦争は無意味だと思います。

 

夢の世界を地上に持ってくる技術は、たくさんあっていいとおもいます。

Pokémon Go の日本リリース、いろんな問題が片付かなくて、いつまでたってもラウンチしないけど、おかげで新しいARゲームやビジネスのアイディアはどんどん出てきます。

GoogleGlass今売れよ!的な。 

ちなみに、現在公開されている Pokemon GO はトレイラーで描いていた機能のほんの一部でしかない、今後もどんどん機能追加されていくはずです。負けていられません!!

 

まとめ

まったくどうにも信じられないぐらい長いエントリーになってしまいましたが、最後まで読んでくれてありがとうございました。

『Pokémon GO』に学ぶ商標問題と、VRを面白くするために「もっと大事なこと」。

・”ポケモン”は商標問題のポケットモンスター。

・VRコンテンツ作ってる人は、特許でも商標でもいい、IPとっとけ、いますぐとっとけ。

・プレイヤーも作り手であることは楽しい

・プレイヤーは複合ペルソナ、ひとりじゃつまらない。

・プレイヤーは動的ペルソナ、Pokemon GO以降を設計せねば。

・ライブ感、みんな集まるMMMOを維持する技術

・みんなに愛される必要性

・ハードウェアこそがんばれ

 

以上、テクノロジーの話ではない話ばかりで、何も前に進んだ感じがしない話になってしまいましたが、なんでこんな長い話を書いたのか、というと、私も「ひとりじゃつまらない!」のです。

ARやVRのエンタテイメントシステムのその未来を、これからもバシバシ解説していきたいと思います。

世界のエージェントやトレーナーたちと一緒に、今日も、歩きます!

 

 

 

追記

おとなり韓国も…

そういや日本のGoogle Mapsの地図著作権もいろいろ問題あるわけですが、これは Ingress で解決済み。
こうやってNianticがいろいろ風穴あけてくれているという理解もできる。

原発をいま止めるべき10の理由 – Ten urgent reasons to stop nuclear plant now

「川内原発を止めてください。」(change.org)

パリ在住のアーティスト,新津 亜土華 さんに紹介されてこのchange.orgのキャンペーンを知りました.

私はフランス暮らしを通して職場での常識的な政治ディスカッションやクリティカルシンキングについて経験を積みましたが,現在,日本のコンサバティブな職についている立場上,政治的思想的な発言はできるだけ控えたいです(ここは個人ブログですが,社会の一員として社会的な責任を持っているが,政治思想の発言ではないことを明言しておきます).
この問題,昨日までは4:6ぐらいで「継続稼働いたしかたなし」という風潮で理解していました.
主な理由は「現地の人々が復興を頑張っているのにその電力を県外の人々の”不安”だけで止めてしまってよいのか?」という意見によるものでした.主にTwitterで.

しかし,エネルギー関係のエンジニアであった父の話や,
新しくなった日本科学未来館「100億人のサバイバル」ゾーン1での毛利館長のメッセージなどを見るにつれ,
急速に考えが変わってきました.

署名するかどうか,署名したからどうなる,ということではありませんが,ここ数日モヤモヤ考えていた疑問や不安を,以下「原発をいま止めるべき10の理由」としてまとめてみました.

1. 福島の失敗から学んでいない

北澤宏一先生(元東京都市大学学長・独立行政法人科学技術振興機構顧問・東京大学名誉教授)が晩年の最後の仕事としてまとめた「福島原発事故独立検証委員会有識者委員会」のデータ,経験,失敗から何も学んでいない.

2. 想定外の自然災害

現在起きている群発地震は気象庁の観測史上初の現象であり,想定外の自然現象であるといえないか?単発の地震であれば耐えられる問題も,物流が停止し,人員が自由に移動できず,リソースも判断も平時ではない状況で,すでに想定外の状況に入っていないか?

3. これは経済問題なのか?

技術的に制御できる,止められるのであれば止めるべきであることは一般市民であっても理解できる状況.「異常はない」という情報はしつこいぐらいに報道されているが,人々は異常がないことを知りたいのではない.何日あれば安全に止められるのか,止めることによってどのようなリスクがあるのかを知らされるべき.技術的な問題のレイヤーと経済問題,政治的な問題,訴訟問題などを分けて考える必要がある.訴訟をすることで1日1億円の補償金がかかるとしても,福島での事故によって,日本が失った国土は経済的に復旧可能なのか,と考えると,これは経済問題ではない,という判断にならないのか?

4. リスク管理ができていないのでは

「異常がない」と報道されているが,止めること,継続することに対して,どのようなリスクがあるのかをどう管理できているのかの情報も,判断もない.少なくともNHKニュースの「異常がない」という報道が真実だったとして,世界各国からの視点で,どのように異常がないのか,例えば建物の損傷やインフラ,従業員の被災状況などビジュアルで理解できる写真や説得力のあるデータが一切ない.

5. 制御できない科学技術となっていないか

原子力発電所を構築する技術のうちいくつかはその安全基準の判断に疑わしい条件がある(原子炉格納容器漏えい検査の不正とその事実に関するTEPCOのH14年における経緯説明など).福島での事故においてそれらが現実の事故として明らかになっているにもかかわらず,現状においても「異常がない」とする姿勢はすでに我が国における原子力発電所が制御できない科学技術となっていないか?

6. 経済戦争が理由になっていないか

原発の運転継続となる判断が,過去のエネルギー戦争や経済戦争が原子力発電所の建設ラッシュ,またはその建設による借金が背景にあったとして,この経済戦争が続いているとして,原発の灯を落とすことがその戦争への戦線を下げることとしても,この行き過ぎた競争をクールダウンさせる理由として,福島での事故やこの自然災害の脅威を肯定的に使うことができないのはなぜか?リスクを取ってヒートアップさせる理由があるのだろうか?

7. これはカミカゼなのか?だとすれば国土でやることか?

リスクを取って勝利を得ようとする,これは日本のかつての歴史に何度か登場したカミカゼ精神に他ならない.だとすれば,それは自国の国土を永遠に消えない傷をつけてもでやるべきことなのか?運よく自然環境が味方することもあるだろう.しかし現状は,自然環境は明らかに日本人にとって不利に傾いている状況であり,原発運転継続はプラスの要素は一切ない(安全に稼働していれば,プラスマイナスゼロの状態).マイナスの要素としては事故のリスクであり,福島のように永遠に立ち入れない土地を増やすだけではないか.そこで地面を削る事業を延々と生み出しているという意味では喜ばしいと考える人々もいるのかもしれないが,それはプラスではないだろう.

8. 国際社会における責任を考えていない

少なくとも,私は海外の友人たちに「なぜ日本は九州の原発を止めないのだ,何ならほかの原発だって止めたほうがいい」という質問や忠告に対して,説得力のあるデータや写真や理由を持ち合わせてはいない.「現地の人々にとってこの電力は必要なのだ」という意見も,九州電力のでんき予報(http://www.kyuden.co.jp/power_usages/pc.html)を見る限りでは 943万kW, 77%と需要は減りこそすれ余裕がある.つまりYes派だってきちんとデータをみてつぶやいているわけではないのではないか.

九州電力による「でんき予報」電力使用実績データ(4月上旬)

前項とも密接に関係するが,国際社会から「日本人はクレイジー」という否定しがたい風評をあてられるマイナスも考えていただきたい.日本は原発事故のおかげでノーベル物理学賞を獲得しているわけではない.きちんとデータをもって考えるべき.

9. これだけの止めるべき理由があるにもかかわらず,議論が全く不透明なまま継続ありきの異常さ

素人視点でこれだけの問題が出てくるのに「異常がないのだから継続すればよい」という簡単な状況なのだろうか.政治家も報道も,国民市民に説明するのが仕事にもかかわらず,説明は十分にされていない.地元の人々にはされているのだろうか?この震災で国会TPP特別委員会が連日中断しているが,(プロ市民を除いて)報道やネットでの風潮を含めて,議論を整理して,一般の人々にわかりやすく「止めるべきなのか,止めない理由があるのか」をきっちりと理解できるように説明していない.どこでどのようにディスカッションされているのか,一般市民が国際社会に向けて説明できる程度の情報や証拠は必要な状況では.

10. そもそも日本人は自分の意志で原発を止められないのではないか

大変残念な最後の項目ではあるのだけど,もしかして日本人は「電気は使うけれども,原発を止める選択肢なんて最初から持っていない」のではないか?だとすると,原子力発電所は「技術的には止められるが,経済的には止められない,ブレーキの壊れた乗り合いバスのようなもの」ではないか.この現実が認識できているのだとすれば,それは今すぐ止める努力をしなければ,例えば,みんなでブレーカーを落として,電気契約を解約するぐらいの抗議運動でもし続けないと,本質的な解決にならないのではないか.

以上,私は原子力が専門ではないのでたぶん間違っていることも多くあると思います.でも一般の人がモヤモヤしていることを箇条書きにすることはできたと思います.

change.org立ち上げ人の高木博史さん,
どこのどなたか存じませんが,
異常な状況にある日本人に疑問を投げかけてくれてありがとう.
英語併記で立ち上げてくれてありがとう.
でも画像はもうちょっと説得力のある画像にしたほうがいいかもしれない.

ちなみに私は現存するどこの政党にも協力するつもりはありません.節電には協力したいですが,
特に日本の左寄りの政党には協力するつもりはありません.

政治的な潔白が不透明なままの場合は,本キャンペーンへの応募は取り消したいと思います.

 

以下,「偉い人視点」で

じゃあどうすればいいの?

をまとめてみます.

<いますぐやるべき原発推進派の情報開示>

  1. 福島の失敗と異なる止められない点について表でまとめる
  2. 現在の群発地震が想定内であることを写真で表現する
  3. 仮に止めるために必要な技術的なプロセスと,判断プロセス,実際に止めるとなった場合の経済問題を表にまとめる
  4. 「異常がない」の判断基準について表でまとめる(実は細部は異常があるのですが,関係各位の努力で異常が無いことにしてます,ということも含めて表現する)
  5. 止める判断をした後の技術的プロセスについて,実際に想定外の事故が起きてしまったぐらいの詳細さでHP上で明示する
  6. 継続運転することのプラスの理由を表現する
  7. 現時点で人々が不安に思っている不確定要素について,FAQ形式で紐解いていく
  8. 日本語と同じ情報を海外に向けて同時発信する.YouTube等の動画でも発信すべき.
  9. 原発を止める判断をする窓口,プロセスはどこだかはっきりする.少なくとも事故が起きた時の責任の所在の明確化.
  10. 国民の選択の上で継続しているのかどうか?もし積極的な節電や電気契約解除にまでたどり着くと影響があるのかどうか?この問題に対してNoと叫びたい人とYesと叫びたい人の正しい窓口について明示する.

以上.

メディアアートを考えながら,オンライン年賀状、結局どこで出すのが得なのかを調べてみた

2017年新春,追記しました.

 

#年賀状はメディアアート」というタグを展開していることもあって年賀状はメディアアートではないかと考えている.


メディアアートの授業では「メディアアートとは人と人との関係性を作るアート」と定義してさまざまな作品を分析解説している.ここ数年は「郵便年賀.jp」というサイトがさまざまなWebクリエイターを巻き込み,大変興味深いメディアアートとしか呼びようがない作品(サービス)を展開されていたのであるが,今年は,全然新作がない.2015年末に株公開を達成し民営化の成功によるものだろうか.そら「干支似顔絵作成ツール」とかつくったら12年はイノベーションしなくても良いのかなという気もしないでもないが,そんなことをしているとメディアアートは社会に溶けて行くだけなので,新しいメディアアートを作り出さねばならない.

21世紀にハガキは絶滅するのか?

年賀状はよいものである.特にハガキがいい.丸見えなのも,良い.時間がかかるのも良い.SNSで「あけおめことよろ」なんてタイムラインを見ていなければ流れてしまうし,そんな手軽な挨拶は新年にふさわしくない.ハガキは丸見えでやってくる.家族にも親戚にも丸見えのソーシャリティ全開のアートだ.グラフィックアートが中心であるが,手芸や工芸,アニメ,マンガ,ゲームといったメディアアートの範疇に入るオタク文化もしっかりと受け止められる.なんならMaker文化も取り込んで電子回路も組み込んでもらってもいい.

しかし手紙という文化ははっきりいって廃れている.フランス人は旅行に行ったらまず最初に「絵葉書はどこだ,ポストはどこだ」といって家族や親戚に10枚ぐらいは出す.アメリカでも郵便局は街中のいいところにドカンとある.しかしメキシコに行ったら郵便局どころか切手もない,そもそもポストがない.空港ならさすがにあるだろうと思って聞いてみると,「クーリー?そんなものはクーリーエレクトリックで出せ」と言われた.メールは電子メールで出せ,か.そうだよね,この手に持っているスマホでパシャっと絵葉書とってメールで送ればいいよね….って違うだろ!だったら御土産物屋で絵葉書売るなよ!電子回路組み込むぞ!

もし自分が乗った飛行機が落ちたとする!メキシコで強盗にあって死んだとする!
そんな時,自分が最後に送った電子メールにどれだけの意味があるんだよ!
お葬式やるころに,届くであろう絵葉書がいいんじゃないか,わかってくれよ!

それはともかく,オンライン年賀状はよい

それはともかく,オンライン年賀状は良い.郵便年賀.jpが生み出したものの中で一番win-win-winなプロジェクトではないだろうか.ハガキ派も,ネット派も郵便局も儲かる.ハイブリッド感がよい.

なんといっても,翌年以降は住所とかを管理する必要がないのもうれしい.年末の寒くて忙しい時期にプリンター関係でイライラしなくて良いなら,数千円のコストは払うべきと思う.自分で印刷してもそれぐらいかかるし.

値段を調べてみた

ここ数年,郵便年賀.JPと提携していた「ウェブポ」と「Yahoo年賀状」を利用している.ウェブポはあまりが画質が良くなかった(レーザープリンタ画質)が,今年は富士フィルムイメージングの高品質印刷でまあまあ.Yahoo年賀状はスマホアプリで宛名を読み込める(ちょうど名刺管理サービスのEightに似ているクラウド人力処理)ので元旦以降に便利である.

(2017年追記)Yahoo年賀状は2017年はサービスしていないようで,株式会社connectitのこちらのサイトになります.
https://net-nengajo.jp/service/scan/

価格体系は変わらず以下のようです.

  通常価格 10-29枚
(10% OFF)
30-49枚
(20% OFF)
50枚以上
(30% OFF)
普通紙 78円 71円 63円 55円
写真用紙 108円 98円 87円 76円
喪中・寒中 68円 62円 55円 48円

 

価格については,初めての人にとっては年に一度しか使わないから,正直なところ,一度頼んでみないとよくわからないと思うだろうから,以下,グラフにしてみた.

maisu-kingaku

tanka

私はどちらかのサービスの回し者ではないし,安ければよいと言うことでもないからコメントはしないけれど,数枚ならどちらも大して変わらないが,30枚以降で変化があるので確認すべき.さらに,80枚頼むより,100枚で頼んだほうが合計金額からして安いということもある.日数やサイトの使いやすさなどは各サイトで確認して欲しい.それから自分はオリジナル画像を印刷するだけなので,デザインの豊富さとか,アーティストコラボ的な要素が好きな人はそれも大事かもしれない.

グラフの読み方がわからなかったり,追加情報があれば @o_ob までお寄せいただければ幸いです.
(宣伝とか商売とかは無視しますが)

 

 

「水木しげるの幸福論」と息子と読む

誰にでも、成績や学校環境など、社会にはいろいろ悩ましい問題がある。

努力しても努力しても日々忙しく、虚しく過ぎる。学校や親は「まっとうな人間はこうあるべき」という話はする。そのために「やらねばならない事」についての話はする。さらにその理想について足りない自分の話ばかり突きつける。

しかし、ふと考える。
そのような人間はみな幸福なのであろうか?
そのような人間の努力はこれからの世も幸福であるのだろうか?
そもそも幸福とは何なのであろうか?

アタマをからっぽにするためにも、息子と一緒に、先日、妖怪の世界に旅立たれた漫画家・水木しげる先生の「水木サンの幸福論」を読んだ。漫画家らしく、軽く読みやすい特徴のある語感で朗読しやすく、息子と一緒に並んで読んだ。朗読した。

幸福の七カ条

第一条
成功や栄誉や勝ち負けを目的に 、ことを行ってはいけない 。

第二条
しないではいられないことをし続けなさい 。

第三条
他人との比較ではない 、あくまで自分の楽しさを追求すべし 。

第四条
好きの力を信じる 。

第五条
才能と収入は別 、努力は人を裏切ると心得よ 。

第六条
なまけ者になりなさい 。

第七条
目に見えない世界を信じる 。

本章の詳細はKindleの無料版でも読める。
http://j.mp/1mtjpc4

いくつか抜粋しておく。
・不幸な顔をした人たちは 、「成功しなかったら 、人生はおしまい 」と決め込んでいるのかもしれないネ 。

・人間は好きなこと 、すなわち 「しないではいられないこと 」をするために生まれてきた。

・楽しみながら好きな漫画を描いて 、楽して暮らしたいという人たちです 。そういう人たちは 、ほとんどが消えてしまいました 。たぶん 「好き 」のパワ ーが弱かったのでしょう 。

・ゲーテ「いつも遠くへばかり行こうとするのか ?見よ 、よきものは身近にあるのを 。ただ幸福のつかみ方を学べばよいのだ 。幸福はいつも目の前にあるのだ 」
・若いうちは努力。
・ゲーテ「人間は落ちるところまで落ちると 、もはや他人の不幸を喜ぶ以外楽しみはなくなってしまう」
・ゲーテ「世の中のことは何でも我慢できるが 、打ち続く幸福な日々だけは我慢できない 」

・「幸福に関する水木サンのテツガク的論考は 、あの世に行くまで 、いやホントにあの世へ行っても続く」

などなど。
勉強になる。

現代の錬金術師が、現代の魔法使いの書籍「魔法の世紀」を読んだら、実は大変なことが書いてあった。

時間を創り出す

初のメキシコ遠征以来、ソンブレロを頭に装備していたら、自分の中のラテンの血に火がついたのか、いろいろ考えて書いたり描いたりする時間に費やすことにしている。
秋の夜長というのはクリエイティブに過すのに適している。
論文を書いたり、ブログが炎上したり、鉛筆画を描いたり、奥さんとデートとしたりもしている。
もちろん仕事もしておる。今日はこのブログを沼津から書いている。

「忙しい」とは心を亡くすと書く。「師走」はその文字のとおり、先生が走ると書く。
忙しいのは当たり前であり、12月に先生が「時間が無い・時間が無い」と言って挨拶や酒ばかり飲むのも「当たり前」のことである。

本当のクリエイティブとは「時間を創り出す」こと、と教えている。創造者とはそうあるべきだ。
費やす時間が無くなれば、どんなスキルを持っていても、ただの「忙しい人」だ。
時間を創り出せ、そうすれば創れる。

落合陽一氏に書籍「魔法の世紀」の書評を頼まれた

そんなメキシコ遠征直前のある日、Facebookメッセンジャーでこんなメッセージが届いた。

白井先生
<略>
11/27(金)に初めての単著である『魔法の世紀』という本を刊行することになりました。
「映像の世紀」から「魔法の世紀」へというテーマで、今この世界で起こりつつある変化の本質を、テクノロジーとアートから語った1冊です。帯文は、富野由悠季監督、堀江貴文さん、チームラボ猪子寿之さんに寄せていただき、また、装幀は鈴木成一さんにお引き受けいただくことができました。
<略>
この手の固い本(コンピュータ史やデジタルカルチャーなど)が売れることはあまりないのですが,一気にSNS上に本の情報を溢れさせることで、コンピュータ文化やHCIに世間を巻き込んでいきたく考えております!
<略>
落合陽一

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4905325056
魔法の世紀

落合陽一と白井暁彦

この場を借りて、落合氏と私の関係を話しておく。私はいつも”落合君”とお呼びしているが、今は筑波大学の先生であるから”落合先生”とお呼びするべきで、しかも落合くんを”先生”と呼ぶと個人的には侮蔑や嘲笑に値する感じがなぜかするので表記上”落合氏”とする。

2014年9月18日(木)は氏の誕生日だったらしい。日本VR学会大会@名古屋大学にて。このときはたしか、落合氏が米国のマイクロソフトリサーチのインターンシップから帰ってきた日で、名古屋にたどり着いたけど日本円をまるっきり持っていないので、会場のレストランでご飯をご馳走してあげた記憶がある。

初めて落合氏にちゃんと会ったのも、確かそこから4年前の2010年 9月16日(木)あたり。金沢工業大学・日本VR学会 第15回大会だったと記憶している。私が日本科学未来館での非研究者としてのポストから、学壇に戻って初めての日本VR学会で、多重化隠蔽技術に関する初めての学術発表行い、エキサイティングなディスカッションを東北大学の北村先生と交わした。発表も終わった会場で、共著者である東工大・長野光希らと研究に関する反省会を行った後だっただろうか。懇親会に向かおうかという閑散とした会場に、落合陽一はいた。

大学3年生が学会にソロ参加している時点でも面白いな、と思ったのだけれども(長野君も当時3年生だった)、IPA未踏ユースプロジェクトで採択された「電気が見える」デバイスとソフトウェアの開発について、目の前でいろいろ見せてくれた。

「電気が見えるデバイス」は、何が面白いかと言われると、一言で説明するのが難しい。要素がいっぱい詰まっているな、と感じた。直感的に分かりやすいものを作っているけれども、そもそもどうして電気を見えるようにしたいのか?というモチベーションに興味が行った。予算獲得の説明にあるような「理科離れ」とか、単にかっこよく見せたいとか、そういう他のプロジェクトや作り手とは違う、「野生」のようなものがこの人物には感じられた。落合氏の白黒をベースにした独特の風貌のせいだけではないが、一要素ではある。

Horiemon.comより

私も野生の生き物なので、野生の勘を感じつつも、アホみたいに「お父様が国際ジャーナリストの落合信彦なんだってさ~」という紹介で、これまた懇親会場で近くに居た現代美術館の森山朋絵さんに紹介し、スーパードライを飲みながら盛り上がったことを記憶している。

お父様が国際ジャーナリストなのに、名前がプラスとマイナスで陽一とは、なんとカオスなのだろうか。
本人は「電気を見えるようにしたい」といっているし、
こんな白黒ファッションをしつけている、お母様は陰陽術士に違いない。

その後の私と落合陽一氏は「ジョナサン・ノマドワーク仲間」とでも表現できようか。
私が深夜・日中のジョナサンで「白井博士の未来のゲームデザイン」の執筆や、論文やコーディングをしている頃、ちょうど彼も似たようなことをしているから非同期遭遇率が多いのである。ジョナサンはドリンクバーもあるし、シートが柔らかく、机も広いので、執筆向きなのである。
朝の3~4時ごろのTwitter上で出くわすことが多い。

https://twitter.com/o_ob/status/394382735139028992/

もちろん最近は私は徹夜をしないようにしているし、テレビやメディアでの露出が多くなるとジョナサンで仕事していると一般の人に声を掛けられてしまったりするので、悩ましい。

メディアアーティストとしての落合陽一

私は工学者としての側面からメディアアートを教えることが多い。
メディアアートは「ニューメディアアート」として語られたり、{媒体,コンピュータ,ガジェット,ネットワーク}アート、「科学と芸術の融合」と語られたりする歴史があるが、エンタテイメントシステムを研究する私は、ここ数年「メディアアートは人と人との関係性を創るアート」として説明してきた。

そういえば、私自身も東京工芸大学の学生の頃、アーティストを名乗っていた時代もあった。
しかし、写真であったり、イラストレーションであったり、マンガであったり、コンピュータグラフィックスであったり、映像であったり、ゲームであったり、バーチャルリアリティであったり、論文であったり、ジャーナリストであったり、そして工学者であったり、研究者であったりと、単なる「アーティスト」と自称するのは作品さえあれば問題は無いのかもしれないが、表現する「arts」が多すぎて、受け手の考える「アート」の枠では収まらない。なんとなくファインアートの人々に失礼な気もするし。

落合陽一は、たしかにガジェットを作ってはいるけれども、筑波大学にはいるけれども、明和電機岩田洋夫先生、クワクボリョウタ氏に代表されるようなツクバ系デバイスアーティストとは何かが違う。

私はエンタテイメントをまじめに研究する側なので、明和電機のようなエンタテイメントは大好きだ。しかし、落合陽一は自己表現のためにアートをやっているのは間違いないが、他の自己目的性のアーティスト、つまり「表現したいからやっている」という自己目的性ではなく、何か別の目的があることを感じる。

何が違うのかは、このブログアーティクルの中で、書評とともに、分析していきたい。

落合氏は「現代の魔法使い」、私は「錬金術師」。

落合氏は自分のことを「メディアアーティスト」とは名乗らず「現代の魔法使い」という通り名でセルフプロデュースしている。メディアもそのいでたちと響きをうまく受け止めているようだ。

自分が2010年から研究している多重化隠蔽映像技術も、多くの人が体験したときに「魔法だ!」という反応を示す。

電気的な道具を使わずに、偏光だけで、かつ何の改造も施していないディスプレイが多重化する。見ている映像がフィルタを通してみた場所だけが異なる体験に、人々は「魔法」を感じる。多くの人々は技術的な説明を聞きたがる。私も科学コミュニケーターの端くれなので、説明はするが、アルゴリズムの細かい話をしても納得する人など居ない。そもそもそんな質問をするのは電機メーカーのエンジニアか、研究者ぐらいで、酷いときにはさんざん説明した後に「わかった!これで別の特許が出せそうだ!」なんて失礼なことを言い出す人も居る。優れた技術デモというものは、そうやって多くの人に別のアイディアを与えてしまう事をよく経験する。私は錬金術師なので、普通の金属をレアメタルに変えるような技術の創出方法には興味があるけれど、私自身のアイディアにインスパイヤされて出た特許など興味は無い。ただ、人々の頭の上に浮く「!」については、錬金術の材料として興味があるので展示などはできるだけ前に立っていろんな人に「!」の理由を聞き出したい。人によって、「納得した!」というラインは様々異なる。「技術が知りたいのではなく、納得したい」という人がほとんどであるので、時間が無いときは「魔法です」というと、「ああ!なるほどね!」と納得してしまう人も本当に居る(もちろん技術という魔法として解説するが)。

さて落合氏の話に戻る。落合陽一の名前を知らない人でも、この動画は見たことがあるかもしれない。

これは私がチェアを担当しているフランスのLaval Virtual ReVolutionで展示された、音響浮遊+LEAP Motionによるデモで、これを体験するLavalの子供たちはまさに、魔法使いの体験だった。

Lavalでのこの写真を見ていると、落合陽一が「魔法使い」として具象化している。

実は「現代の魔法使い」との通り名は、ホリエモンこと堀江貴文氏が名づけたとのこと(落合氏の記録による)。ちょうどこの頃、私も堀江氏にインタビューされ、このイベント「ホリエモン春のVR/AR祭り@ロフトプラスワン」(2014/3/31)にも呼ばれて一緒に講演していたので、私は落合氏が「現代の魔法使い」として登場する過程を「ハコスコ」登場とともに、目の当たりに見届けていることになる。

落合氏が「現代の魔法使い」なら、私は「偏光の魔術師」とか「現代の錬金術師」でありたいと思う。私はお金に興味があるわけではないが、こなれた物質であるコンシューマーデバイスであるWiiRemoteなりKinectなり3Dディスプレイといった、当たり前のマテリアを金(キン,Au)に変えるような技術を研究するのが大好きだ。世の中は、「カネに変えたい人」は多いかもしれないが。

現代の錬金術師が、現代の魔法使いの書籍「魔法の世紀」を読む

魔法使いにしても錬金術師にしても、世間からは「ウサンクサイ」と思われるのが常である。私は魔術師でも奇術師でもなく、錬金術師なので、どうやったら普通の金属が価値のあるレアメタルになるのかを理解しているし、説明しろといわれれば納得のいく説明方法を用意できなくもない。落合陽一は「魔法使い」であるから、魔法を使う。魔法を作る方法もおそらく知っている。魔法使いの中には、魔法を使っているが作る技術がない者、魔女のように世間からの迫害を避け、隠遁生活を送る者も多く居るが、氏はそうではなく、自分で作るだけでなく、どんどんと衆目に向かっているようにも見える。

そんな落合氏が書いた「魔法の世紀」。
さて読み解いていこう。

「魔法の世紀」表紙と帯から

「魔法の世紀」落合陽一

表紙はLaval Virtual 2013でも展示された「コロイダルディスプレイ」。帯の解説もしておく。

情報技術がディスプレイの内側ではなくこの現実を変える時代、
「映像の20世紀」は終わりを告げる。そのとき社会と芸術は変化するのか。
その最先端を担う研究者にして、メディアアーティスト――
28歳の<現代の魔法使い>が世界を揺るがす――。

富野由悠季:
現代の魔法使いの杖が古典に内在するアートを掘り起こし、新しい世界への道筋と在り様を語る。若さ故の語り落としもあるのだが、その心意気は憎くも愛したい。落合陽一はニュータイプだろう。

堀江貴文:
コンピューターは僕にとって魔法の箱だった。そして魔法はまだとけないことをこの本で知った。落合陽一の魔法があれば、僕はあと50年は戦える

チームラボ猪子寿之:
未来を生きるすべての人々へ

富野氏の「落合陽一はニュータイプ」という言葉はインパクトがあるし、富野ファンにとって、あまりに汎用的な1行なため、単なる富野節というか、軽く聞こえてしまうかもしれない。しかし、本書を読んでみると富野氏のメッセージの前半のほうがはるかに意味がある。富野氏はなぜ落合氏の「心意気を憎くも愛したい」のか。

堀江氏は私と同世代なので、「コンピュータは魔法の箱」という視点は共感できる。そして「コンピュータの魔法がとけるんじゃないか」という疑念を抱いている。たとえば2015年現在のiPhoneや、今年登場したAppleWatchの存在は、まるでワクワクしない。「魔法がとける」という言葉は「解ける」つまり、種明かしをされてしまう、という意味もあるが、本書を読むと、これは「溶ける」と脳内変換するのが良いと思う(詳しくは本書内の八谷和彦氏の発言を参照)。「あと50年は戦える」という表現は1世紀の半分を意味するが、これは堀江氏の「我が闘争」を読まねば真意は分からないかもしれない。気になるのは「落合陽一の魔法があれば」の11文字で、これは帯を使った公式の投資オファーなのか、落合陽一氏が本書で語る「魔法」についての話なのか、未来の読者のために、解説はしないでおく。

猪子氏はひとこと。「未来を生きるすべての人々へ」。明らかに多読な堀江さんに比べ、猪子さんは本なんて読んでなさそうなキャラクターではあるけれど、この13文字で、かなりのことを語っている。帯は本当に文字数制限が多い。猪子氏はこういうとき、軽く天井のほうを見ながら目を閉じて、彼のスーパーコンピューターにアクセスして、突然ひとことで、こういうことを言う人物。私も、この13文字には同意する(結論で理由を述べる)。

帯と装丁で、ちょっとだけ残念なのは、この書籍がいったい何なのか?
いわゆる 普通の人 には全くわからないことだ。
本を開けば縦書きだし、一般の書店流通を通していないらしいし。

Amazonで買うのが一番手っ取り早いが、装丁が美しいので手に取りたい魔術書ならではの魅力がある。おそらくこの書籍を店頭に平積みしている書店があるとすると、おそらくその書店は魔術書を好んで扱う書店に違いないからTwiterで落合氏に報告すると好まれるだろう。

「魔法の世紀」目次から

私自身の書評は本エントリーの最後のほうにまとめた。約束どおり、Amazonにもポストした。ここから書評が始まるかと思うと、読み手としてはクッソ長いブログですまないが、読みすすめてほしい。

以下、目次より抜粋する。ちなみに1章ごと1冊の本といえるぐらい、内容が濃く、テンポが速く、テイストが違う。

  • まえがき
  • 第1章 魔法をひもとくコンピュータヒストリー
    魔術化する世界
    コンピュータを〝メディア化”したアラン・ケイ
    早すぎた魔法使いと世界を変えた4人の弟子
    ユビキタスコンピューティングへの回帰
  • 第2章 心を動かす計算機
    なぜ僕は「文脈のアート」を作るのをやめたのか
    メディアアートの歴史を考える
    アートがテクノロジーと融合する
    コンテンポラリーアートの背景にある「映像の世紀」
    「原理のゲーム」としての芸術
    コラム メディアアートとしてのキャメロン作品
  • 第3章 イシュードリブンの時代
    プラットフォーム共有圧への抵抗
    新しいことをするために
    なぜイシュードリブンの時代なのか
    コラム 人工知能は我々の世界認識を変えるか
  • 第4章 新しい表層/深層
    デザインの重要性
    デザイナーの誕生─バウハウスの産声
    表層と深層を繋ぐもの
    表層と深層の再接続がもたらすもの
  • 第5章 コンピューテーショナル・フィールド
    メディアの歴史
    「魔法の世紀」における「動」の記述
    コンピューテーショナル・フィールド
    コラム 計算機にアップデートされる美的感覚
  • 第6章 デジタルネイチャー
    「人間中心主義」を超えたメディア
    コード化する自然:デジタルネイチャー
    場によって記述されるモノ
    エーテルから生成されるモノ
    魔法の世紀へ
  • 落合陽一 メディアアート作品紹介 2009〜2015
    あとがき
    画像出典一覧/ 引用文献一覧

“まえがき” を解説

まえがき「映像の世紀」から「魔法の世紀」へ p.12より引用する。

「映像の世紀」のまっただ中の1973 年に、SF 作家アーサー・C・クラークは、「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない」という有名な言葉を残しました。
魔法とテクノロジーについて考えたときに皆さんが最初に思い浮かべるのは、この言葉ではないでしょうか。
研究者やエンジニアたちは、世の中に文字通りの「魔法」なんて存在しない、最初からあり得ないものと思い込んでいます。だからこそ、彼らはこの表現に巧妙さを見いだすのでしょう。しかし、僕はこの言葉を、単なるレトリック以上の可能性として捉えています。つまり、ありえないほどの超技術は、文字通りの「魔法」になりうるのではないか、と。
僕は「再魔術化」の果てにあるのは、まさにクラークが遺したこの言葉が実現した世界だろうと考えています。

余りにも有名なアーサー・C・クラークの「十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない」は実は3本法則あるうちの3法則目「Any sufficiently advanced technology is indistinguishable from magic」で、私が好きなのは第1法則「高名だが年配の科学者が可能であると言った場合、その主張はほぼ間違いない。また不可能であると言った場合には、その主張はまず間違っている」だったりする。それはともかく、この時点で「魔法」とか「再魔術化」などの言葉が出てくるので、この本の読者であろう研究者はエンジニアたちは面食らうことに違いない。

この書籍を読んで、落合氏の技術やその発想のエッセンスを盗み取ろうと考えた人々は、まずここで降参する必要がある。頭を中学二年生ぐらい設定する必要がある。この本を読むときの心構えとして、私はあえて「この本はSF」として設定することをお勧めする。

なお、アート系の読者のなかでも特に哲学よりではなく能天気な読者は、何も考えずに2章から読み始めたほうがいいかもしれない。

「第1章 魔法をひもとくコンピュータヒストリー」 を解説

この章は、読む人にとっては面白い。
一方で、読む人にとっては、全く面白くない。
その評価は「世代」と「勉強への興味」によって分かれるかもしれない。

面白いであろう世代は1990年生まれ以降のデジタルネイティブ世代。
面白くないであろう世代は1960年代生まれのマイコンとともに育った世代だ。
私は1973年生まれなので半々の世代。

本章を面白くする、もうひとつの軸が「読み手の勉強への興味」、知的探究心だろう。
本章は完全に歴史書だ。ドラマはほんの少ししか含まれていない。
「歴史が好きだ」という人や「歴史を学ぶのが好きだ」という人で、それを知らない人にはワクワクする話だろうが、その歴史をリアルタイムで生きてきた人々、特に紹介される人物のライバルだった世代には面白くない歴史でしかない。富野氏の「語り落とし」はこんなところも見える。

本章は、おそらく「魔法の世紀」を明確にするため、20世紀を「映像の世紀」と定義するため、歴史書として配慮して書かれたものと思われる。
しかし構成上のつくりから面白いところも感じられる。

確実なことは、落合氏がアラン・ケイに特別な敬意を持っていること、だ。
「サザランドの4弟子」であるのに、別次元で扱っている事から読み取れる。

私もアラン・ケイには大きく揺り動かされたので、共感する。

ちなみに1章だけで、1冊のコンピュータ・インタラクションの教科書といえるぐらい、情報量が多く、かつテンポが速い。
落合氏が、学生時代にノートに書いていたことをそのまま再構成したのではないかと思うような知識量と、歴史の再構成がなされている。
クラスの優秀な人物のノートをテスト前にコピーさせていただくような表現で申し訳ないが、
これをそのまま教科書として使いたい。
メディアアートやコンピュータの歴史を教える教員にだけ(こっそり)教えておく。

「第2章 心を動かす計算機」を解説

第2章も歴史が続く。しかしこの章は第1章と比べると、ドラマチックだ。

おそらく第1章は工学系の読者に配慮したもので、歴史上の事実を圧倒的な情報量とその整理をもって圧倒し、最後に「Pixie Dust」に至るまでの道筋を必然とするために必要だったものと考える。

しかしアートを批評するものは主張、能天気なクリエイタは主観と技法で物事を判断する。第2章はそれらすべてをドラマチックに巻き込んでいく。

余談ではあるが、まず嬉しくも複雑なのは、落合氏は、まぎれも無く「メディアアートで育った世代」であるということ。幼少期の写真や体験などはテレビ番組などで特集されているので知ってはいた。たしか電話を破壊している。私の場合は、時計を破壊(主観では「分解して再度組み立てに失敗」している)、母の大事な高級腕時計をより美しくするために食洗機にかけて破壊したこともある(私は母が生きているうちにオメガを弁償せねばならない)。「電話」というデバイスは、私は分解対象にはしなかった。黒電話はたしかに魅力的ではあったけれど、通話は有料なので、子供が自由に触ってはいいものではなくリカちゃん電話や110番といった禁断の遊びに近かった。私はそういう少年時代であったが、落合氏は少年時代にMIT石井裕先生の「タンジブルビット」の展示に出会っている。石井裕は電話会社NTTの研究員だった。メディアアートの美術館である初台icc(インター・コミュニケーション・センター)もNTTの資本で創設された。「Demo or die」のMITメディアラボ、数ある石井裕の作品・技術デモの中でも、「ミュージックボトル」という「タンジブル・メディア」の中でも比較的難解な原理的メディアアートがきっかけになっていることを知れて興味深い。

筑波大学に滑り止めで受かった落合氏は、すでに紹介した日本を代表するメディアアーティスト、クワクボリョウタや八谷和彦といった人々に直接影響を受ける。

個々の出会いのドラマについては本書を楽しみに読んでほしい。
以下は、iPhoneとの出会い。

僕も当時、さっそくiPhone を手に取ったのですが、その便利な機能を使ううちに、はたと考えこんでしまいました。こんな凄いデバイスが普及していったら、人間はコンピュータの下位の存在になってしまうのではないかという疑問が生まれたのです。

なるほど。落合氏でもそう感じることもあるのか。
問題はその後で、きわめて中二的な思想世界が展開される。

コンピュータの総体が、ひとつの意思や特殊なエントロピーのような性質を持っているのではないかと考え始めたのはこの頃です。
人間とコンピュータのどちらが主体なのかを。
生物学の知識がある人は、ミトコンドリアは元来独立した生物だったのに、自身を効率よく複製するために真核生物と共生を始めたという説を知っていると思います。
同様に、人間も自分たちをより確実に生存させるべくコンピュータを使っているうちに、気がつけばコンピュータにとってのミトコンドリアになっていくのではないか
─ふと、そう思ったのです。なかなかにクレイジーな考えかもしれないですが
……。

わかるわあ。
私の青少年のころは逆で、コンピュータがミトコンドリアになって人類に組み込まれる可能性を感じたものです。まだ実現していないけどバイオコンピュータとか。

当時の僕は人間がコンピュータのミトコンドリアになる未来を、世の人々に受け入れさせるべく人間の自己認識を問うような作品を作っていました。この考えは現在では少し変わっている面もあるのですが、その後の研究にまで繋がる大きなテーマになっています。

氏の「文脈のアート」作品の中でも最もインパクトがある作品は「ほたるの価値観」だろうか。

 

氏が「ほたるの価値観」に至るまでに昆虫を殺しまくって以降、「視野闘争のための万華鏡」や「サイクロンディスプレイ」を作っていた頃、この転換が訪れる。

その後、僕は本格的にメディアアートの作品に接近していきます。当時、特に興味を持っていたのが、人の認識の解像度の問題について錯視を用いて迫った作品です。

この問題を考えるキッカケになったのは、またしてもApple 社です。その頃に発表された超高精細のRetinaディスプレイが、人間の網膜では区別がつかないレベルの解像度だと話題になっていました。ところが、ちょうどその時期に、僕は『貴婦人と一角獣』という世界最大級のタペストゥリーを見る機会がありました。その巨大な絵の前に立っているときにふと、これは全て刺繍で作られているのだから、縦糸と横糸をピクセルと解釈すれば、Retinaよりずっと解像度が高い世界最高のピクセル表現と言えるのではないかと考えていました。

そう。
「Retinaは網膜って意味だぜ」「だから網膜の分解能より高いんだぜ」って言ってる連中を、「はあ?何いってんの?」と一蹴してしまうのがただの工学者や理学者の発想と行動だが。

人間の目の分解能と空間の本質的な解像度の対応は正確に言えばディスプレイのピクセルの細かさで判断するのは難しい(例えば星の光は解像度というよりは光子が眼球に飛ぶこむことによる対応関係で考えた方がわかりやすい)のですが、そんな風に解像度という言葉を拡張
していくと、現実世界はある意味では無限に解像度が高いディスプレイであるとも考えられます。そして、この無限に解像度が高い錯覚の信号からイメージを生成できれば、それは現実と変わりがないのではないかと考えたのです、そういった現実性の再定義みたいなものを作品として作っていくことも面白いなと思っていました。

最近私はこれを「Real Virtuality」と呼んでいます。

氏は、続けて文脈のアートからの転換を書いている。

最近の僕はいわゆる文脈的な作品をほとんど作っていません。代わりにメディア装置の研究ばかりしています。
これは大学の研究者とアート活動を往復する中で、あることに気づいたのが理由です。どうやらメディア装置の制作による「表現」という試みと、メディア装置の「研究」はよく似た特徴を持っている─そんなふうに思うようになったのです。
この僕の結論はあまり理解されないかもしれません。なぜ新しいメディア装置の研究がメディアアートの表現になるのか─怒る人もいそうです。

「デバイスアート」が何であるのか?を世間に伝えるために、日本科学未来館で1日3,000人ぐらい来るお客さんに、科学を伝えていた私(科学コミュニケーター)からすると、怒るというより、このような青年が登場してくれたことに安堵を覚えざるを得ない。世の中はいまだに「科学と芸術は相容れない」なんてことを当たり前のように考えている一般の人や、企画者にあふれているのだから。

続く「原理のゲーム」としての現代芸術の解釈、歴史も大変役に立つ。

 

ちょうど昨日、2015年の11月27日に発売されたばかりの書籍なので、書籍の全てを分解してしまうのは誰にとっても嬉しくない。続く章も解説していきたいが、それは読むものの自由を奪う行為になるので、今日はこのへんでやめておく。いつか追記するかもしれない。

2章の中で、ひとつだけ、紹介しておきたい図がある。「うなずきん」だ。

unazukin

落合氏はこの「うなずきん」を相手に涙している。

書評:落合陽一は「現代の魔法使い」ではない、魔法使いを名乗る「未来人」である。

この本を読んでいて、私の中での「ある仮説」が確証付けられていった。
落合陽一は「現代の魔法使い」ではない。
魔法使いを名乗る「未来人」である

理由がいくつかあるが、端的に紹介しておく。

歴史について詳しい上に、整理されすぎている。この本はSFでありFuturology(未来学)の本だ。私も「白井博士の未来のゲームデザイン」で未来学を書いたので、Futurologistの端くれなのかもしれないが、人類が現代まで築き上げてきた知識と経験を、現代の子供が28年間の間に効率よく学んだとしても、ここまで整理をして凝縮して伝えるのは難しい。一方で「魔法の世紀」を生きている未来人が、何らかの事故で「映像の世紀」に産み落とされてしまい、未来人の観点から過去の歴史を整理していると考えれば腑に落ちるし、「魔法の世紀」からみた歴史上の重要でない事項を語り落としたとしてもあってしかるべきだ。父・落合信彦氏も「2039年の真実」を書き、Wikipediaによるとブラックマンデーの直前にはドナルド・トランプに「売り」の指示を出して大統領候補の大富豪トランプの損害を大幅に救ったことがあるそうだから、実は家族そろって未来人一家なのかもしれない。

超時空要塞マクロスに乗って宇宙を地球に向かって漂流している未来人にとって、メディアアートは原理と文脈のゲームでしかない。
フェムト秒の時間で世界を観測している未来人にとって、物質は「窓」でしかない。

未来人であることは、さすがに秘密にしておいたほうがいいので、
魔法使いを名乗って、それで世間をカモフラージュしているのだろう。

「命を削って書きました」

落合氏が未来人であるかどうかの正体はともかくとして、彼は現代に生きている。ご自身がつぶやいておられるように、この書籍は「命を削って」書いている。私も落合氏も同じであると思うが、博士論文も命を削って書いているし、テレビ番組だって命を削って出演している。Twitterにおけるつぶやきだって、そうだ。ただの大学生だった落合君は、博士になり、いまや日本を代表する魔術師になっているが、彼の削命行為は衰えるどころか、ますます輝きを増している。

なぜリスクをとり 命を削るのか

氏は、最近、筑波大学の助教に着任された。大学1年生から研究室に出入りする学生を巻き込み、こんな活動をされている。

<落合陽一×SEKAI NO OWARI>ライブ会場に「魔法」をかける〜Zepp DiverCityを大改造!

安全なところで、時間もかけずに、リスクもとらずに先生面していることだってできるのに、あえてホコリまみれになり、高所に登り、作業をする。しかもこの作業には私の知るところでは大学1年生の教え子たちも参加している。このようなリスクをとり命を削る本当の目的とは何か。それは「育ってほしい」からではないだろうか。いや、正確には育った後に「次の世紀に進んでほしい」に他ならない。馬鹿のふりをする、誰もやらないことをやる、面倒なことに時間をかける。それらはすべて「自分がやりたいからやる」のではあるけれど、そのような馬鹿を単身でやること事態に相対的な価値などない。社会に対して発信する意味があるのは、それを背中で示す必要があるからではないだろうか。

私は落合氏の考える世の中観は当初(書籍を読むより、ずっと前)、非常に荒っぽくナマイキな感じがしたけれども、それは19世紀末の人間が20世紀の人間を見たら、誰でもそう感じるだろう。未来から来た未来人なのだけど、何かの理由で未来と現代を行き来することはできないから、苦悩している。未来にはどんな病気も治す薬などもあるかもしれないが、現代では入手できないから意外な苦労もするだろう。前世代の古代酒をうかつに口にして壊れることもあるだろう。そうやって思わぬところで死線をさまよい何かを悟った後に、「命を削って研究をすることの意味や覚悟」をよく理解していて、私は共感している。それは本書の中では「モチベーション」として表現されている。「コンピュータになくて人間にあるもの」、それは「やる気」であると。

過去には「根性」と呼ばれていた時代もあったが、未来人であってもそれは変わらないようだ。
人工知能がいくら進化しようとも、研究者にとって、研究はライフ(Life: 人生、生活、一生、活力…)であり、「モチベーション」だけが人間の存在価値なのだ。

落合氏はどこに向かうのか

人工知能に関するコラムで、氏は興味深い「最高の未来」を語っている。

p62

「コラム 人工知能は我々の世界認識を変えるか」(p.123):
人工知能の話をすると、こういう方向に話が進みが ちですが(ちなみに、僕は本当に人工知能が全てをやっ てくれる世界が来たら、仏国でワインでも作りながら 暮らすつもりです。人間らしいことだけをして暮らせ ばいいだけの、最高の未来だと思います)

後半のアカデミアとの関わり方は未来人が言うのだから仕方ない。
最近は温暖化の影響でワイン産地もだいぶ北上していて、近い将来にはロワール川北側のLavalでもワインが作れる時代が来るかもしれない。

「魔法の世紀」の普通の人たちの暮らしは、フランスの田舎にある。

おわりに

私の長々とした人物紹介と書評を読んでくれてありがとう。

このすばらしい書籍を現代にプレゼントしてくれた落合陽一氏にまずは拍手と喝采を浴びせなければならない。

御礼のかわりに、Amazonには以下のようなショートレビューを書こうと思う。

「十分に発達した魔法使いは、未来人と見分けがつかない」

本書は工学書であり、美術書であり、メディアと現代美術の歴史書であり、サイエンスフィクションである。

落合陽一は「現代の魔法使い」ではない、魔法使いを名乗る「未来人」である。

2015年、歴史の大車輪において、
「映像の世紀」である20世紀の様々な輪廻が起きている。

「魔法の世紀」に生きている落合氏にとって、
iPhoneは人間の存在価値の喪失と悟りを与えるきっかけとなる装置であり、
バーチャルリアリティやメディアアートは必然であり、
それは世の中に溶け、Kickstarterでの資金集めも、
その輪廻の一部でしかない。
この輪廻を脱し「魔法の世紀」に進むためには、
我々はこの本を年内に読み、未来から過去に向けて、
前世紀の重力圏を脱しなければならない。

このような「魔術書」はなかなかお目にかかることはできない。

 

魔法の世紀

大都会に生まれ育って郊外に暮らす俺が引っ越し考えながら人の幸せと住所についてつぶやく

変な時間にコーヒーを飲んでしまい、また地球の裏側と仕事をしていることも有り、変なテンションでFacebookで見つけた記事。
ちょっとスキなマンガ家さんである江川達也さんがシェアしてた。

28歳OLが選ぶ街「恵比寿」。いつでも脱げる臨戦態勢バッチリな女たち

東京のライフスタイルを紹介して15年の東京カレンダーが、東京に住む女性たちをエリアごとに分類した「東京女子図鑑」女性の趣味趣向は、居を構えたエリアに如実に現れ、よく行くレストラン、出没場所で形成、強化されていく!?

本日は、人気の街《恵比寿》。秋田から上京して、アパレル企業に就職したのをきっかけに「三軒茶屋」に住んだ綾。手取り23万円で、駅から5分の家賃7万円の1K、築5年のマンションで一人暮らしをしていた彼女が、次に引っ越した街とは・・・?

こういう記事読むと、東京もまたバブル期に戻ってきたんだなってカンジがするよ。当時は無知なおっさんたちが多角経営と不動産投資に手を染めてたんだけど、最近はこの手のおねえさんなのかもしれないな、とか。

一方ではこういうシンデレラ調の作文大好きな文芸女子が、半分酔っ払いながら書いてるんじゃないかなって感じもする。
広告として、ステキなお店を紹介して、高い値段に不満も持たずに払ってね、という意味しかない売文オブ売文。
街が人々にとってどんな存在であるのかなんて、広告だとか不動産関係とかにリテラシーが低くて、それに無否定で大枚はたいて後から後からから住んでくる住人の印象で無理矢理にどうとでもなってしまう。例えば恵比寿交番前ってのはIngress民にとって有名なハッテン場だし。ゲーム関係で言えば、スクエニがあった場所だし。写真関係で言えば写真美術館だし。ビール関係で言えばエビスビールだし。元々住んでいる人やその町の歴史なんて、彼らにはどうでもいい。コンクリートで出来た、新品の住居しか興味が無いんだろうし。

三茶の生活感ってのは、あるよね。

三軒茶屋に限ったことではないし、実際に好きで都会に
住んでいる人に悪いからちょっとボカして簡単に表現すると、
電線と電柱がある街と、ない街。
大学がある街と、ない街。
大病院がある街と、ない街。
託児所が無料である街と、ない街。
図書館がある街と、ない町。
バス料金が定額の街と、そうでない街。
バス料金は定額だけど、
ほとんどの乗客がお年寄りで、しかも無料で乗っている街。
高級マンションが並んでいるけど、日本人が住んでいない街。
小洒落たランチやカフェの店しかなくて、落ち着けない街。
どう考えても儲かってなさそうな商店がない街。

でも結婚するってのは生活そのものだから
男性女性にかかわらず、
生活感に嫌悪感を持った人物が結婚するのは難しいだろうな。

そのうち飽きるんだよね、こういう生活感がない暮らしって。
「おもひでぽろぽろ」という高畑映画がまさにそれ。

ところで、自分は横浜の鶴見という下町で育った。
最近では若者に人気らしい。
自分にとっての鶴見はいろんなエリアがあるけれど、総じて本当に下町で。京浜工業地帯から近く、鶴見線沿線と京急沿線は労働者の街。魚臭い街。京浜東北線だって、スーツは着ているけどやっぱり労働者の街。空気は悪いし「川崎病」とか喘息に悩まされる。中学とか毎日ガラス割れるし、スクールウォーズのような事がガチで起きている街で生まれ育った。
いま自分が住んでいるあたりは、自分の先祖が住んでいたあたりで、親がわざわざ横浜に住居を構えたのに、わざわざ田舎に住んでいる事になる。
というか、住めないよ、横浜。土地高いし税金高いし。空気悪いし。教育ひどいし。

中学高校時代の人で、生まれ育ったエリアから近いところに住んでいる人も(二世帯住宅とかも)いるのだけど、それは本当に大変だろうなと思う。親子の仲が良いところは良いのだろうけど。そういえば、結婚している人も子供を産んだ人も本当に少ない。正直なところ、ライフコストが高すぎて、高卒レベルでは、単身では絶対に家なんて持てないし結婚なんて無理だ(と多くの人が感じているし、実際にそれほど既婚率も出産率も高くない)。

ライフコストが安い神奈川県央エリアに行くしか無い。
しかし県央エリアで育った人はどうなんだろう。
具体的には横浜線を北上するエリア。最近の若い人。

今日、その横浜線沿線の駅前。某イトーヨーカドーの某店で買い物して驚いたのだけど、
品揃えが近所(相模原市中央区)の某イトーヨーカドー系列の某店とぜんぜん違う!
ここは成城石井かよ!ってほどではないけど、輸入食材とかが並んでいる。
で、びっくりしたのが、地元産の大山豆腐。
近所の倍近い値段で売っている。
たしかに路線価的には東京都町田市プライスだけどさ、同じ横浜線だぜ、住所的には相模原市南区だし、数駅しか変わらない。
それなのに豆腐1丁あたりの値段が倍とかドン引きですよ。
相模原の片田舎のほうがQoL高いんじゃね?
高くていいもの買っているならともかく、同じものだしなあ…。それに東京都町田市や横浜市というわけじゃなくて、相模原市の中央区と南区ってだけの違いだし。税金だって固定資産税だってさほど変わらないのに駅前スーパーの豆腐一丁の値段で透けて見える。
これは貯金はおろか、住宅ローンだって減らないわけだよ。

あと某イトーヨーカドーの商売ね。
セブンプレミアムという、消費者が深く物事を考えられないブランドを展開して、メーカーも弱らせて、中身のクオリティも値段もつけ放題。儲からなくなったら、街ごと撤退。
某イトーヨーカドーは隣に某イオンもあるのだけど、カルテル行為もいいところだよ。

消費経済の上ではプライスは安けりゃいいってわけじゃない。土地代とか人件費もあるのはわかっているけど、物の値段にセンシティブで、クルマで10キロ圏内なら移動してしまう相模原民からすると、ちょっとおかしいよな、って思う。どんだけスーパーのプライシングに躾けられてるんだよ、と。

ちなみに相模原は段丘状の土地になっていて、市役所のあるあたりから相模川に向かって、上段(うえだん)、中段(なかだん)、下段(しただん)、最下段(さいげだん)と呼ばれている。
なんか被差別っぽーい、と思うが市役所の人がそう呼ぶのだから、役所では常識なのだろう。土地の物件・路線価によって固定資産税が違うのだから役所の人にとってはクライアントである。不動産関係の人は、買ってくれる人の職業や資金のことまで知っているから、知らず知らずのうちに住所でその人物の世帯収入などを透けて見ている。

先祖代々の土地を引き継いだ長男でもなければ、また、貧乏から脱出できないのでなければ、ハザードマップで水没する訳ありの土地には住まないだろう、という論理。

潤水都市」などというキャッチフレーズがつくよりも前に、
水路のある町が好きで住んでいるんだが。しかも横浜の大都会から引っ越して。

まあよい。

川向うの愛甲郡愛川町なんて、より物件が安い。ハザードマップで水没することも少ない。駅がない、政令指定都市ではない、神奈中バスに足を握られているというところを除けば何らデメリット無し。外国人労働者が多く、日本人より外国人のほうが目立つぐらいになってきたが、特段に治安が悪いということもなく、パチンコ打ったり飲み歩いているのはむしろ日本人が多い。

まあよい。

豆腐だけではデータが足りない。こういう町は住めるのか住めないのか。
下町育ちのゲーマーでゲーセン店員だった私は、土地の風土や民度が読めないと、ゲームコーナーに行ってヒューマンウォッチングする。図書館でも良いのだけど、まずそれがないし。

ゲームコーナー、特にメダルゲームコーナーに居る子どもたちやお爺さんお婆さんたちを観察し、そのプレイを見ていると、いろんなことが透けて見える。
お金の使い方、子供の方っておかれ方、メダル貯金で延々と遊び続ける子どもたち、メダルゲームしている主婦の目のイキかた…。トイレの汚れ具合。時間とお金に余裕がある人が、何をするのかを短時間で把握するいい方法。パチンコ屋でも良い。図書館は蔵書と本の痛み方、貸出ランキングとか注意張り紙や機関紙をみればだいたいのことはわかる。
もちろん、パチンコ屋やゲームコーナーにいる人はそれなりに変わった人かもしれないけど、絶対数が多ければたくさんいる。パチンコ屋は閑古鳥が泣いていても、それなりに成立する場合はあるけれど、ゲームコーナーに閑古鳥が泣くような町はありえないし、そういう街は先にゲームコーナーが潰れる。まあストアチェーンのゲームコーナーは最近はほとんど標準装備だし、いる人達も隙があって、素のままの姿をさらけ出している事が多い。

バブルの頃を思い出すと。
若い人にとっては、給料が無意味に上がっていく。実力とは関係なく。
自分は新聞配達のバイトで月給23万ももらっていた。その後、わけあって会社が潰れたり、自分自身が自費で浪人してなんとか大学に合格したこともあって、年齢が18歳を超えて、風俗業で働けるようになったのでゲーセンバイトを選んだ。なんといっても給料が良かった。パチンコのほうがもっと良かったが周りで耳が悪くなっている人が多かったのでやめた。飲食バイトとゲーセンバイト、どっちに時間を売るかを悩むが、私はゲームがタダでやれるのでゲーセンバイトを選んだ。その後、大学での写真が本当に面白かったので、誰でも時間を売ればできる、技術が必要でないバイトはしばらく辞めた。

バイトでこのレベルなので、正社員はもっとバブルだった。
昨日まで牛丼屋の店員だったような人が、ITの研修を受けるだけで、SEになれた。
給料もどんどん上がる。
自分の実力とは関係なく、世間がイケイケドンドンになるのだけど、実際にはそれって危ないことで、リアリストであること、つまり生活感がある、自分の生活や人生のキャリアプランが地続きであるということそのものが、ほんとうの意味で実力のある人の生きる生き方なんだと思う。

牛丼屋の店員だった人も、勉強し続けた人は、偉くなったし、社長になった人もいる。
逆に、最初の研修からずっと勉強してこなかった人は、いまだにCOBOLやデータベースの夜間処理とか緊急対応とかで喰っているようだ(それはそれですごい運がある)。

さて冒頭の、三軒茶屋から恵比寿に引っ越したおねーさんの話だけど、あと5年ぐらいすると、
そういう暮らしにも飽きるんじゃないかと思う。
そもそも40歳過ぎると脂っこい飯なんて毎日喰ってられないからね。

小洒落た店で金出して食べる楽しみもいいけれど、
自分で作れるほうが絶対楽しいし、みんなでワイワイ食べれる方がいい。
メダルゲームで無限に遊べるのはいいことかもしれないけど、
勝負に執着するのもいいことかもしれないけど、
メダルゲームに時間を費やす虚しさに気がつくのも大事なこと。

ま、簡単にいえば、余力がある、豊かだってことだよね。
そして豊かであるってことは、その人がずっと幸せであるってこととは別ってこと。
何が幸せなのかは、自分で探していかないとだからね。

子どもたちはフランスで育ったり、野山を駆け回って野鳥や虫やカエルに囲まれて育ったけど、
ずっとそういう暮らしが好きだというわけでもなし。
都会しか知らずに育っていく人もいるし、私のように都会から郊外に越す人もいるし。

選択して、開拓して、苦労して、乗り越えて…そういうところに人の暮らしの幸せってあるわけで、はじめから満たされている子どもたちのほうがよっぽど可哀想。
街の変化スピードと人々の暮らしの変化スピードの差なのかもしれないね。
そんなことを考えながら、引っ越しを考えているよ。
まあいつも考えているので引っ越さないかもしれないけど。

自分は、たぶん「相模」のこのエリアが好きなんだよ。
大学の頃に厚木温水の川沿いに住んでいたからなのかもしれないけど。
そして、自分が好きであるかどうかに関わらず、街はどんどん変わっていくんだよね。

横浜の鶴見も、今はもう少し住みやすいかもしれない。
多感な省中学高校生や喘息持ちにとって辛いだけで、新婚さんには素敵な街かもしれない。

もっと自由に引っ越せる自由があったらいいのにね。不動産とはよく言ったもの。

Appleの引き取り修理にiPhoneを渡したら傷ついた

修理しても直るものと直らないものがある

お気に入りのiPhone5S SIM Freeを修理に出したら傷ついた。

そもそも今回のiPhone5s修理は、下の画像にあるようなカメラの斑点を修理していただきたいという点が理由だった。

「伝えること」のあたりや右側の一部に斑点がある。レンズ内のホコリ侵入、CCD焼けか、フィルタの変質といったタイプの問題で、カメラやならオーバーホール清掃もしくは部品交換で済みそうな状況。

取材や発信活動のメインカメラとしてiPhone3GS, iPhone4SからiPhone5Sまで、カメラがなければiPhoneは使用していないというぐらい重要なデバイスなので。
しかしApplenoサポートサイトのオンライン診断システムでは、カメラのCCDの斑点を調べるようなことは特になく、代わりに「電池の異常」というポイントを指摘してきた。そういえば電池の持ちもおかしいのかもしれないな、AppleCareにも入っているし。という気持ちでカメラの点検を依頼して今回の修理引き取りサービスを利用した。

まずAppleStoreでの修理と比較していたので、いきなり「引き取り修理」の流れになり、気が付けば支払方法まで決定し、さらに確定後に「修理完了まで最大1週間かかります」という通知が最後の瞬間まで表示されないのは卑怯だと感じた。
毎日一瞬たりとも手放さないiPhoneだけに、1日かけて銀座や渋谷のgenius barに行ってもその対価に見合うだけのカンジのいい店員による手際のよい交換作業の価値はある。そもそも新機体になったときの問題、具体的には環境移行、アカウント、ステッカーチューン、アクセサリといった修理以外の要素が一刻の寸断もなく確認とともに引き継がれるのは重要である。

引き取り修理サービスは配送手配も手配番号などがないので、いったいいつ、どういう形で来るのか?が全く分からずバックアップを取るタイミングを見はからうのが難しかった。というのも64GBのiPhoneから画像を抜き終わるのに軽く5時間はかかる。さらにそこからフルバックアップは2時間ぐらいかかる。その間もそのあとも、全くiPhoneが使えなくなるのだ。
代価機となるiPhone5を用意していたのもさらに時間がかかった。OSのアップデートには失敗するし、そもそもiTunesは元機体のバックアップ中なので同時並列にやれることは限られてくる。

しかも言われていた時間に配送引き取りが来なかった(夕方指定がちょっと遅く19時ごろ、ちょうどそこだけ不在していた)おかげでさらに翌日になってしまった。

その当時のTweetから。

Google2段階認証(Google2FA)は、てっきりGoogleアカウントに紐づけしているのかと思ったが、実はそのデバイスにしか情報がない。Twitterも同様。つまりiCloud対応アプリやGameCenter、Evernoteのようなクラウドアプリ以外はオンラインからリストアすることなどできず、アカウントは失ったiPhoneとともにロックされてしまったも同然になるので、まずはGoogle2FGAにせよTwitterにせよ、どんなアカウントを使っていたのかはスクリーンショットでも取っておかないと思い出すのも大変。最低でも2FAをOFFにしておかないとそのデバイスがなくなってからでは普通のパスワード認証に戻すこともできなくなる。本当に当たり前のことなんだけど、半日ぐらいiPhoneをバックアップのために放置しなければならない環境ではそもそもそういうことを思い出すきっかけすらなくなってしまう。

直ったというより…

で、最終的には届いてから戻ってくるまで1日以下だった。これはお客としては喜ばしいのかもしれないが、実際には代価のiPhone5を入手して、消えてしまったTwitterやGoogle Authenticationの解除や再登録をやっていたのでそのストレスは尋常ではなかった。戻ってきたiPhoneは完全な新品で、自分が施していたステッカーチューンなども完全に取り払われた別の機体がやってきた。「ものを大事にする」という気持ちや愛着のあるiPhoneをここまで踏みにじられ「新品やるからこれで我慢しな」と言われる感覚はメーカー側にはわからないだろうが、これではAppleにiPhoneをレンタルしているのと変わらないではないか。

なんか傷つく。

受け取りを確認してから全交換、すなわち新品を送り付けるという行為は「私はお客を信用していません」という行為にほかならず、車であれば代車は事前に貸し出されるべきだ(そうでなければ販売店に行くこともできない)。性悪説を取り、信用できないというのであれば、多少フィーを払ってもよい(すでにAppleCareを払っているが)ので先に新品を送り、その機体への環境移行が終了してから旧機体を回収する方法をとるべきと思う。これもなんか傷つく

っていうかApple側にはファクトリーロックとかGPSとかあるんだから性悪説なんて取る必要もないじゃんね。さらに傷つく

Appleはこのような心情的苦痛を少しでも和らげるために、UXデザインとしてやれることとしては以下のような設計を検討されたい。

・「最大1週間かかる」という情報と「ふつうは1日~半日で新品が帰ってくる」という情報を早めに表示
・代価機のレンタルが可能であれば先にそれを表示
・そもそも全交換になる可能性が高いのであればそれを先に表示
・代価機のレンタルサービスを表示
・消えてしまうデータの例を明示(Twitterアカウント、その他のログインデータなど)
・引き取りサービスの伝票番号に当たるもの
・サービスセンターでの受け取り確認以後の発送通知

正直なところAndroid機とiPhoneを両方使っていく中で、Androidは壊れて愛着を持つ前に新機種出てしまうし、ほとんどのことがクラウドに収まっているので正直なところSIMカード以外に重要なものがない。

一方、AppleのiOSデバイスは長く使えるハードウェアであるし価格もそれなりに高い。サポートやOSや環境などトータルな使い勝手が継続して、愛着を持って利用する最大の要素であることをお忘れなく。

以上、この後、修理に出す人の参考になれば幸いです。

 

“fallen”, someone who is killed by war

“fallen”, someone who is killed by war.

The Fallen of World War II

It can be counted as a pixel, but it may have another aspects.
During watching this well edited visualization, I’ve thought a lot of things.
I can believe video games save fallen from the world war in this new peace.
But I also think again killed people in Hiroshima and Nagasaki and urban attacks.
http://www.aasc.ucla.edu/cab/200708230009.html
We are children of children who is attacked people, but who is still alive.

This piece can also gave me a point of view from Chinese children who is attacked by Japanese solders.
And remember here are some nationality who is lost in the history.

We should share the history again, not only from an individual view.
To understand each other, to find next new world together.

Thanks Paul Debevec​ for sharing this, and Neil Halloran.
http://www.fallen.io/ww2/